『深川の雪』に残る、いや、残っていない!? 謎とは

喜多川歌麿「三美人図」(一部分) 江戸時代 岡田美術館蔵 ※「大きな画像を見る」で全体をご覧いただけます。
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 実はこの『深川の雪』には落款(サイン)や印章(ハンコ)がなく、本作を喜多川歌麿が描いたと確実に証す、同時代の資料は存在しない。もっとも古い記録は明治12年(1879)、栃木県にある寺を会場にした展観に、土地の豪商・善野家が「雪月花」3点を同時に出展したというものだ(この時の出品目録にも歌麿の名はない)。歌麿は善野家の4代喜兵衛(=狂歌師・戯作者の通用亭徳成)と狂歌を通じた親交があったこと、他の画中に見られる歌麿の私的な書き入れに、栃木ゆかりのものが多いこと、また近年栃木市内で、やはり歌麿とされる肉筆画の『女達磨図』『鍾馗図』『三福神の相撲図』が見つかっていること、そして「雪」がわずか2枚の巨大な和紙を継いで作られていること(それほど大きなサイズの和紙は同時代の絵画にほとんど見られず、和紙の産地である栃木近郊で特注されたのではないかと推定)、そしてもちろんその画風なども含めて、歌麿が栃木を訪れ、現地で制作した作品ではないかと推測されている。

 今のところ、歌麿作であることについては多くの研究者が一致しているが、不思議なのは、押しも押されもせぬ人気絵師になっていた歌麿にこの作品を発注したクライアントが、なぜ堂々とサインを入れさせなかったのか、という点だ。『品川の月』と『吉原の花』にもサインがなく、「サイン抜き」の態度は徹底している。

 この理由について、岡田美術館館長の小林忠氏は、注文主は個人ではなくある種の共同体で、寺などへ奉納するために制作したものだった可能性もあるのでは、としている。またシリーズとして企画されたものにしてはサイズや画面構成が不統一である点についても、注文主が集団だと仮定するなら、納得できるかもしれない。ただ寺への奉納品に遊里の情景を描くのはふさわしいとは言えず、では誰が、何のために、という問いに再び戻ってしまうのだが……。

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2014.04.26(土)
文=橋本麻里