16歳で酒づくりの世界へ入り、90歳を超える現在も現役で酒づくりを続ける杜氏・農口尚彦は人呼んで「酒づくりの神様」だが、同時に「酒の鬼」とも称されているとか。神と鬼とは、ともに人間離れしている存在だが、その実態は果たして……?


半年にわたる酒づくりを追うドキュメントが完成

 このたび農口氏の酒づくりに密着したドキュメンタリー映画「NOGUCHI -酒造りの神様-」の配信がスタートされたと聞き、師走の某日、酒づくりのさなかにある酒蔵「農口尚彦研究所」(石川県小松市)を訪ねた。

――このドキュメンタリー映画は、コロナ禍前に撮影されていましたね。撮影はどんな風に進められたのでしょうか?

 ちょっと……あんまり憶えてないんですよね。

――あら、そうでしたか。たくさん取材の方とかいらっしゃいますもんね。では、映画をご覧になった感想をお伺いできれば。

 まだ観てないんですよ(笑)。

――なんと! では農口さんと、同じようにまだ映画をご覧になっていない読者の方にご説明しますと、この作品は2020年の「農口尚彦研究所」での半年間に及ぶ酒づくりに密着し、経験の浅い蔵人さんたちと山廃純米大吟醸酒という難しい酒に挑まれる姿がつぶさに描かれていました。酒蔵では厳しい表情を見せる農口杜氏が、ご自宅では一転、好々爺然とリラックスされているのが印象的でした。

 いや、自分ではなんとも。観ておりませんので(笑)。


 酒づくりの作業の合間に取材に応じてくれた農口杜氏は、酒蔵のロゴの入った紺のジャンパー姿で登場。そのフロントジッパーは律儀に首元までキュッと上げられている。「インタビューはこちらでお願いします」と階段を上がる姿はさっそうとしていて、とても先日91歳の誕生日を迎えた老人とは思えないが……酒づくりが始まり、自分の映画どころではなかったようだ。


――(気を取り直して)では、農口杜氏のお話をゆっくりお伺いできる機会は貴重ですので、今日はいままでの半生についてお伺いしようと思います。農口杜氏のお育ちになった村ではたくさん杜氏の方がいらしたそうですが、農口さんが酒づくりの道へ進もうと思ったのはどのようなきっかけでしたか。

 わしの村は能登杜氏の村だったんですよ。能登杜氏ってご存じですか? 昔は寒づくりと言って冬の寒い、農閑期に酒をつくっていたんです。そこで農家の男たちが、冬は酒づくりに出ていたわけです。なかでも岩手の南部杜氏、新潟の越後杜氏、兵庫の但馬杜氏、そして能登杜氏が日本四大杜氏として知られていますね。だから20世帯しかないような小さな集落で、酒蔵の蔵人として働く家が7軒もあったんです。

――では、酒づくりの道に自然に進まれたんですね。16歳で静岡の酒造会社に就職されています。

 姉は勉強も得意でね、村で初めて女学校へ進みましたが、わしは勉強あんまり好きじゃなかったからね。学生時代は戦争(第二次世界大戦)中でしたから、学校へ行ったって軍事教練やら、避難訓練やらでろくに授業なんてありませんでしたよ。富山に空襲に行ったB29が帰りに能登上空をクルリと旋回していくのをポカンと見上げていたものです。それで終戦になったらね、学校が最後の1年間だけ男女共学になりましてね。その1年がもう……楽しかったのよね(心なしか赤面)。

――初恋なんかもそのころなんでしょうか。女の子とどんなことをして遊んでいたんですか。

 ドッジボールとか……。たわいもない遊びですよ。わしは12歳まで母と一緒のふとんで、母の胸に抱かれるようにして寝ていたんですから。末っ子だから甘やかされていたんでしょう。

――そんな甘えん坊が親元を離れたのだから大変ですね。

 戦争中は食うものもなかったし、酒屋なら米はあるだろうと深く考えずに就職しました。最初は何もわかりませんし、今のように丁寧に教えてもらえるわけでもないし、キツい仕事ばかりしていました。たとえば正月、餅をつくんですが、体力的につらいから誰もやりたがらないでしょう。それをわしひとりで、60キロの餅を二樽、120キロつきましたよ。手の皮がむけてしまうから、タオルで巻いてね。

――どうしてそんなに頑張れたんですか?

 わしには学歴もないし、これしかない、という覚悟でした。誰も何も教えてくれないから、ひとりでひたすら教本(「酒造の技術」昭和22年刊)を丸憶えにしてね。当時は蔵人の資格試験が毎年あったんですが、わしは毎年1位でした。それで「菊姫」(石川県)の杜氏として呼んでもらえたんです。当時は27歳でしたが、杜氏としては最年少と言ってよいくらい若かったです。

2023.12.29(金)
文=秋山 都