日本のテレビドラマにおいて「政治」が扱われるとき、私たちは多かれ少なかれ、ある種のステレオタイプを予期してしまうのではないでしょうか。張り詰めた高級料亭での権力闘争、眉間にシワを寄せた代議士たちの怒号、あるいは、どこか遠い世界の物語。
たとえば木村拓哉の月9『CHANGE』のように、圧倒的なカリスマ性を持つリーダーが古い論理をひっくり返すシンデレラストーリー。あるいは『民王』のように、卓越したナンセンスギャグにくるんで、フィクション性の高いコメディとして消費してみせる世界。そこには常に、見慣れた永田町ファンタジーが横たわっていました。
しかし、連続ドラマ『銀河の一票』は、そうした既存のフレームを鮮やかに、かつ極めて誠実に踏み越えてみせました。
選挙事務所の舞台となるのは、下町の空気がそのまま残る「銭湯」。かつて巨大与党のシステムに「切られた」不完全な大人たちが集い、首都・東京の未来を変えるために泥臭く動き出すのです。
物語のボルテージが最高潮に達する今、なぜこのドラマがこれほどまでに私たちの心を掴んで離さないのか。本作が現代社会に投じる「希望」の正体を紐解いていきたいと思います。
正反対の女性二人が都知事選に打って出る
本作の核心にあるのは、星野茉莉(黒木華)と月岡あかり(野呂佳代)という、バックボーンも世代も異なる二人の女性の間に結ばれた、瑞々しくも力強いシスターフッドです。
巨大与党の幹事長を父に持ち、かつてはその秘書として政治の「冷徹なシステム」の内側にいた茉莉。一方で、市井の生活者として愚直に生きてきたあかりが手を取り合い、都知事選という巨大な戦に打って出ます。その出発点となる出馬表明のシーンは、本作のテーマを見事に象徴していました。
あかりは会見の場で、当選の暁には茉莉たち頼もしい仲間を副知事に指名すると宣言します。前代未聞の「当選前の副知事指名」にどよめく記者たちを前に、あかりが語った言葉は、現代を生きる私たちの乾いた胸に深く突き刺さるものでした。
「私が私の不完全さを自覚しているからです。不完全な私でも、仲間たちのサポートによって、首都東京のリーダーになり得る。それこそが私……私たちが都民の皆さまに届けたい『希望』であり『安心』です」
これまでの政治劇が描いてきたリーダーは、常に「完全無欠」であることを求められてきました。弱さを見せたら負け、つまずいたら終わり。でも、あかりが提示するのはその真逆です。自分自身の「不完全さ」を認め、他者と補い合うことでしか成立しない、新しい形のリーダー像でした。
このセリフの直後、ドラマは第1話の茉莉の絶望へとフラッシュバックします。
「辛いじゃないですか、みんなが自分のことで精いっぱいな世界なんて……」
自分のことで精いっぱいで、他者を思いやる余裕すら奪われた社会。あかりの掲げる「不完全な私たちが、不完全なまま安心して希望を持てる社会。明日を楽しみに、安心して眠れる社会」という公約は、第1話で茉莉が流した涙に対する、最大にして最も誠実なアンサーとして機能しています。
これまでの政治が私たちに強いてきた「自己責任」という冷たい刃を、あかりは「生活者の言葉」で、鮮やかに無効化してみせたのです。これは、静かな、しかし決定的な革命です。
