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「オフコースを『辞めたい』ということを伝えたんです」

「音楽的なことで言えば、自分がやろうとしているものを結構、変えられたということがあるのかもしれない。ロックの連中はよりシンプルにしようとしていたが、ヤスはシティ・ポップというか、AORというかさ、もう少ししゃれた感じをやろうとしていたのが、その芽をわりと摘まれてしまったということはあったかもしれないとは思う。

 簡単に言うと、ダーントンタンとコードがおしゃれに変わっていく感じを、できるだけコードの数を減らすと、だいぶニュアンスが変わってしまうからね。そういうことが1回でなくあったんだろうね。それは俺もあったからね。常にドラムとベースが必要なのかという、俺の望んでいるニュアンスじゃないと思うこともね。でもそれは、若い連中に責任があるわけではないこと。試行錯誤だったんだな」

 さらに当時、鈴木は歌詞を書くことが苦手だったと明かしている。

「メロディは時間が経過すればそれなりに出てくるので時間が解決してくれるんだけど、歌詞はいくら考えても出てこない! メロディから自然と言葉が生まれてきたりしないんですよ。……加えて理工系だから本(小説)を読んでいない。それで小説も読み始めるんだけど、小説の物語の言葉の作り方と3分間の音楽の中での詞の構成は作り方が違うから、滅茶苦茶に時間がかかったし、言葉が出てこなかったなあ」

 こうも言っている。

「一方、小田は自分の切ない気持ちを描いて、上手く自分の世界を見つけて作り出していたんです。『あしたのジョー』とか漫画も好きだった小田は、時代のポップ感覚をうまく取り入れるセンスがあったし、ファンレターもよく読んでいたんです。偉いよね。……だから売れる曲は小田に任せて、自分は音楽(サウンド)を追求してアルバムを充実させる方向へと気持ちが向かっていったんです」

 しかしそんななかで、1979年ごろから曲そのものが作れなくなっていったとも表明している。「We are」のミックスのためロサンゼルスに行き、TOTOのライブなど、向こうのミュージシャンたちの質の高いパフォーマンスを見たことも、生真面目な鈴木にとっては裏目に出たのかもしれない。

「みんな滅茶苦茶に上手くて、演奏のレベルも音楽的知識も違うわけです。……これから必死で練習をしても至ることはできないだろうなと、正直に言って打ちひしがれた部分もありました。そんな衝撃もあって、(19)79年あたりから曲が作れなくなってきて、オフコースを『辞めたい』ということを伝えたんです」

2023.12.31(日)
著者=追分日出子