死よりももっと怖いものが待ってるかもしれないね

――第1章「ROOFy」では「現実からの逃避先、ユートピアなどどこにも存在しないのだ」という絶望が描かれています。この考えというのは、実は『6』全体に通ずるテーマとも言えますよね。

 死というものをいろんな角度から捉えたときに、「死の先には、死よりももっと怖いものが待ってるかもしれないね」という個人的な考えがあって。

 やっぱり死ぬことって、誰しも怖いじゃないですか。死ぬのが怖いから、「自分が死んでもそこで終わりじゃなくて、天国のような世界があるんだよ」というのは、古今東西の宗教などにもある考え方です。そういった、怖いものから目を背けた先に楽しい世界があるという観念を潰したかったんです。

――今、「死ぬことは誰しも怖い」とおっしゃいましたが、梨さん自身も死ぬのが怖いですか?

 どうでしょうね。ちょっと楽しみにしている節はあります(笑)。職業柄いろんな死生観に触れますが、「この後どうなるんだろう?」という楽しみはありますね。どちらかというと、怖いという気持ちよりは物見遊山というか、野次馬的なところがあります。

死の先でもずっと苦しみが続くという恐怖

――死さえもちょっと楽しみにされている梨さんにとって、本当の恐怖とはどのようなものですか?

 怪談を書くにあたっていろいろと調べるんですが、やっぱり死が一番怖いとされているんですよね。結局全部「死ぬことが怖い」という話になる、死に帰結するというのが、なんか面白くないなと。死が怖いものの第1位だったら夢がないというか、面白くないじゃないですか。『6』でも、死よりも上位の怖さを描きたかったというのはあります。

――死よりも上位の怖さ、それは恐怖がずっと続く、終わりがない、死んでもどこにも行けない、という状況ですね。

 「無限恐怖症」という概念があるらしいんです。「ずっと続くことが怖い」「終わりがないことが怖い」というものなんですが、それは確かにあるなぁと思って。

 今回の作品も、死という終着点があって、そこで終わりです、ではなくて、その先でもずっと苦しみが続くという永続性に恐怖の力点があると思っています。6つの話を読んで、また1へと戻る怖さ。ずっと続いていく怖さって根源的な恐怖だと思います。人間のような有機的な存在は、どこかで終わりを迎えるという点にひとつ救いがあると思うのですが、その救いが壊れたらいいなと。

――本当に怖いものから必死で目を背けようとする描写が、ものすごく不気味で恐ろしかったです。

怖いものから逃げられないという状況自体を理解することから逃げて、そこにある分かりやすくおぞましいものに、少しでも長い時間集中していたかった。その間だけは、自分を取り巻く状況から「何か」を理解するその瞬間を、延命治療的に遅らせることができるから。(p.19)

 よくホラーゲームで「日記」が出てくるんです。誰かが死の直前まで書いていた日記。「死ぬ直前までなにかを書き残すなんてことある?」などと言う人もいるんですけど、私は、わりとそれはあるんじゃないかなと思っていて。

 もし恐怖が直前まで迫っていたとして、日記を書くことを辞めたら、自然と恐怖の方を向かなきゃいけないじゃないですか。それが嫌だったら、死の1秒前まで日記を書く方に集中する。それは人間の防衛機制的なものとして絶対あると思うんです。恐怖から逃れるためにひとつの物事に固執する、というのは恐怖に対するリアルで等身大なふるまいと言えます。『6』にもこうした考えを据えています。

――しかも、先ほどお話しいただいた通り、『6』における最大の恐怖には永続性があります。目を背けているうちに恐怖がいなくなってくれれば良いのですが、いつまでも変わらずずーっとそこにあり続ける。そこがさらに救いのないポイントだなと。

 まさにそうですね。ただ、その恐怖から1秒でも気をそらしていたいから、とりあえず今は逃げていたいんだということです。

――そうした極限状態の恐怖に晒されて、登場人物は絶望しているはずなんですが、絶望というより諦念を感じるのはなぜなんでしょう。例えば、地獄絵図が眼前に迫ったときの感想が「大変そうだなあ。」って……。

 あそこまでの状況になってしまうと、もう笑うしかないというか。怖がることすらできなくなる気がするんです。

 ホラー映画で「キャー!」と叫んだりするシーンがありますが、あれはまだ怖がることができるという時点で救いがあるんです。「自分は怖がっているんだ」というロールプレイすらできなくなっている状況があるとしたら、文字通り救いがないのだと思います。

2023.07.22(土)
文=ライフスタイル出版部
撮影=平松市聖