「欧米の一部では、いじめてる方を病んでると判断するそうです。いじめなきゃいられないほど病んでる。だから隔離して、カウンセリングを受けさせて、癒すべきと考える。日本は逆です。いじめられてる子をなんとかケアしよう、カウンセリングを受けさせよう、逃げる場を与えよう。でも逃げるのってリスクが大きい。学校にも行けなくなって、損ばかりする。DVもそうだけど、どうしてなんだろう。どうして被害者側に逃げさせるんだろう。病んでたり、迷惑だったり、恥ずかしくて問題があるのは、いじめてる方なのに」

 

 これは本当にそう思います。自分も若い頃は、いじめられたら逃げればいい、逃げていいんだよ、と考えてました。でもある時海外の事例を聞いて、あれ? そうだよな、なんでこうなってる? と疑問を持ったんです。いじめが起きる場合、外からどう見えたとしても、加害者側に理由があります。その心に何かがあります。被害者に理由があったと言う人もいますが、そう感じてしまうことにそもそも理由があるはずなんです。そこを紐解いて癒さないといけないんじゃないかと。DVに関してもそうですが、もっと精神の安定の方法、アンガーマネジメントに力を入れてもらうことはできないんだろうかと常々考えています。これは大人に対してもです。

 こんなふうに、若い頃考えたことと、それなりに歳を重ねて今思うことが違ったりします。作品にはなるべく両方入れていこうと思っています。整が思うことと、周りのもっと大人が思うこと、それは異なってていいはずなので。

「真実はひとつ」?

「僕は常々思ってるんですが、もし家にいて家事と子育てをすることが本当に簡単で楽なことだったら、もっと男性がやりたがると思う」(3巻より)

 この辺りのことも普段思ってることで。「女の幸せ」についての件もそうですが、それを言うのは誰なのか、誰にとって都合がいいのか、つまり真に受けないでいいんじゃないか、と考えます。「女の幸せ」じゃなくて「わたしの幸せ」と言い換えてほしい。一人一人違うはずなので。男女を問わず、いまつらい状況にある人がどんな社会やシステムだったら少しでも楽になれるかを、協力して考えていけたらいいのにと思います。整もきっと考えていきます。

2022.06.30(木)
文=「文藝春秋」編集部