人々の暮らしの名残を感じながら巡る

 そして高島をボートは去り、ついに軍艦島へ。

 けれど、軍艦島に近寄ってはみたものの、波は徐々に高くなり、長崎県が規定するサイズを超えてしまいました。この日、上陸は断念。沖から島影を見物することになりました。

 今は廃墟となっているコンクリートの建物群、それぞれの説明を受けると、当時の様子が目に浮かぶようです。

 北に位置する7階建ての学校は4階までが小学校、その上階が中学校がだったそう。ところどころで枠が抜け落ちた窓は大きく、父兄や先生が子供たちにたっぷりの光を与えたいという願いが込められていたとか。

 学校の脇には病院と、伝染病の隔離病棟が置かれていました。小さな島では感染症が何よりもの恐怖。早くから隔離という発想があったようです。

 興味深いのは、9階建てアパートの屋上にあった保育園。岩盤と石炭を掘った残土で埋め立てた島では植物が育ちません。だから子供たちの情操教育のために屋上に米や野菜を植えていたそう。これは、日本初の屋上緑化。先進性を感じます。

 当時はパチンコ店や映画館、ビリヤード場もあったとか。キツイ仕事の後には息抜きが必要だったのでしょう。

 西にある31号棟の堤防近くには大きな穴が開いています。これは海底炭脈から採掘されたボタを運び上げるベルトコンベアのためのもの。

 上陸ができたならば、見学の通路から、主力坑だった第2竪坑跡やレンガ造りの総合事務所、日本最古の鉄筋コンクリート造りの7階建てアパートが見られるそうです。

 また、西側にそびえる灯台は、人々が去ってから建てられたとか。なぜなら、明かりが煌々と灯されていた島では、船舶がぶつかる心配もなかったからです。

 軍艦島からの帰り道も、世界遺産に登録されている小菅修船場跡や旧グラバー住宅を船上から見物。明治期の日本の近代化の大きな潮流を感じるコースでした。

 ちなみに、軍艦島にかつて暮らしていた人々は、自分たちの島のことを「軍艦島」とは呼ばず、「端島」と呼ぶそうです。

軍艦島

●アクセス 長崎港から軍艦島上陸ツアーに参加を。


【取材協力】

長崎県観光連盟  https://www.nagasaki-tabinet.com/
軍艦島上陸クルーズ https://www.gunkanjima-cruise.jp/

古関千恵子 (こせき ちえこ)

リゾートやダイビング、エコなど海にまつわる出来事にフォーカスしたビーチライター。“仕事でビーチへ、締め切り明けもビーチへ”をループすること1/4世紀あまり。
●オフィシャルサイト https://www.chieko-koseki.com/

Column

古関千恵子の世界極楽ビーチ百景

一口でビーチと言っても、タイプはさまざま。この広い世界に同じ風景は一つとして存在しないし、何と言っても地球の7割は海。つまり、その数は無尽蔵ってこと? 今まで津々浦々の海岸を訪れてきたビーチライター・古関千恵子さんが、至福のビーチを厳選してご紹介します!

2021.04.24(土)
文・撮影=古関千恵子