『急に具合が悪くなる』の濱口竜介監督インタビュー。後篇では、映画の中で演劇やワークショップという枠組みを置く理由や、哲学者の宮野真生子さんが残した言葉から受け取った力など、濱口監督の創作の源泉に迫る。


フィクションの強度を保つための「枠組み」

――劇中で長塚京三さんが演じる俳優・吾朗の独り舞台の脚本も、監督ご自身が書かれたそうですね。実際に演劇をやってみたいと思って書いたのですか?

 いえ、この作品のために書いたのであって、演劇をやってみたいという気持ちはそんなにないです(笑)。

――『ドライブ・マイ・カー』をはじめ、監督の作品には演劇がたびたび登場しますが、それはなぜなのでしょうか。

 演劇やワークショップというものが、境界を少し揺さぶるようなところがあるからじゃないでしょうか。

 映画の中の振る舞いというのは基本的にはフィクションとは言っても、「こんなことあり得ないだろう」ということが多々あるわけです。ただ、そこにワークショップや演劇という枠組みがあると、「何をやってもそれがリアル」ということになるんです。あら不思議。その枠の中では、観客も「ここはそういう局面なんだな」と受け止めてくれるので、不信感を抱かずに接してくれます。

 映画の歴史というのは、観客のリアリズム的なツッコミが発展してきた歴史でもある。言ってみれば、映画のフィクションに対する“信仰”はどんどん弱まっているように感じています。つまり、「どうせフィクションでしょう」「ありえないでしょう」で片付けられてしまった映画も多いのではないかと思います。

 では、フィクションがその強度を保ちながら、どう観客とともに生きていけるのか。その一つの暫定的な身の処し方として、ワークショップや演劇という形式を自分は使っているのかもしれません。そんなことをせずに済めば一番いいのかもしれませんが、自分自身も「そんなことないだろ」と思いがちな現代の観客の一人なので、そうなってしまうんでしょう。

 長塚さんの演劇のシーンでは、演劇を断片的にしかやっていないのですが、観客役で参加したエキストラの方々が本当に楽しんでくださっていて、自然と拍手が起きていたのが印象的でしたね。ここでも、何か現実とフィクションの境界が曖昧な気はしました。

――その長塚さんの孫として、黒崎煌代さんが演じる智樹が登場します。智樹は、ASD(自閉スペクトラム症)のある青年として描かれています。作品の中でも重要な存在ですし、黒崎さんの演技はカンヌでも高く評価されていました。

 そうでしょうね。素晴らしかったですから。オーディションを経て、「この人を選ばなかったら後悔するだろうな」と思い、お願いしました。

――黒崎さんは、朝ドラ『ブギウギ』で初めて拝見した時に、とても新鮮な存在だと感じました。

 僕はその前に映画『さよなら ほやマン』で観ていて、「一体何なんだ、この人は」と思ったんです。『さよなら ほやマン』はキャスト皆が素晴らしくて、私も泣かされたんですが、黒崎さんは本当に、それが初演技とはまったく思えないような演技をしていました。そうしたら朝ドラにも抜擢されて、やっぱりこの人出てきたか、という印象でした。

 オーディションの最終段階では、黒崎さんには実際に脚本を読んでもらい、介護施設を取材してもらったうえで、智樹を演じてもらいました。その時点で既に余計なことはしない、そこにいる、という感じがしていました。

 智樹役が決まった後も黒崎さんには、ASD当事者の方々への取材や交流を重ねてもらいました。僕も一緒にインタビューに参加しましたし、長い時間を彼らと過ごしていただいた。その中で発声や身振りを丁寧に観察し、繰り返し実践しました。

 また、自閉症の作家、東田直樹さんの『自閉症の僕が飛びはねる理由』も読んでもらいました。智樹の内面や精神性について考えを深めていくことで、役に対する不安も少なくなっていったのではないでしょうか。「どう見えているか」という雑念がなくなり、智樹として「どういるか」ということに集中できるようになっていったのだと思います。

 実際の現場では、大まかな動線や発声のタイミングは決まっていますけれど、細かい部分はすべて黒崎さんにお任せでした。最初から最後まで本当に素晴らしかったと思います。

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