下降線をたどるはずの体力、競技力は着実に伸びた

 杉浦は事故前を「前世」と言い表し、50年の人生をスラッシュで2つに分かつ。だが、好きなことに情熱を注ぐ集中力は事故の前後で一貫していた。

 入院中、リハビリのためにとまたがったエアロバイク。心拍数の上昇を知らせる電子音が鳴り響くまで漕ぎ、駆け寄った理学療法士に「落ち着いて。がんばらないで」と止められた。

 高いところに設けられたゴールに、努力のすえたどり着く。そのプロセスを地道につぶしていくことに燃える気質だからこそ、パラリンピックという目指すべき場所ができたことの意味は大きかった。

 薬を秤に乗せるのと同じ緻密さで、コーチから与えられる秒単位のメニューをまじめにこなした。事故当時45歳。そこから、普通なら下降線をたどるはずの体力、競技力は着実に伸びた。

「今年のワールドカップ(5月)の1週間ぐらい前に、新しいTTバイク(タイムトライアル用の自転車)を買っていただきました。それまでTTバイクにはあまり乗ったことがなくてうまく走れなかったけど、練習すると『あ、できた!』と。ほんとに子どもみたいな感じですよ。走ると速くなるって、楽しい」

クラスの集合写真とかでもいちばん端っこに写ってるタイプ

 できることを日々増やしながら迎えたパラリンピック。ロードの会場である富士スピードウェイのコースと戦略を地図に記入し、何度も見返したという。記憶が途切れる障害を上回る頻度で頭に叩き込み、「計画どおり」にレースを運んだ。

 杉浦はこう話していた。

「自分はこういう(取材を受けるような)人間じゃない。クラスの集合写真とかでもいちばん端っこに写ってるタイプなんです。だから、いま言えるとしたら……目立てない子ってたくさんいると思うけど、そういう子の励ましになれたらいいかなって思います。無理して目立とうとしなくていい。好きなことを一生懸命やってればいいよって」

 ロードの勝因の一つは、小柄な杉浦にとっては有利な上り坂が多かったことだという。

 ひと漕ぎごとに高みに達する上り坂。杉浦の生き方そのものだ。

2021.09.14(火)
文=日比野恭三