ケアの手法ユマニチュードは俳優の演出に近い

――映画の中に出てくる、フランス発祥の認知症ケアの手法である「ユマニチュード」に元々興味があったそうですが、何がきっかけだったのですか?

 ケアというものは、かなり演出と近い何かなのではないかと以前から感じていて、いろいろな本を読むうちに自然とユマニチュードにも関心を持つようになりました。

 その中で、10年ほど前に出版された『「ユマニチュード」という革命』を読んだ時に、撮影現場のいくつかの問題とケアの問題が共通しているように感じたんです。

 ケアの現場では、認知症の方が知性や精神性を失った存在であるかのように見なされてしまうことがあります。「何もわからないだろう」「言っても伝わらないだろう」と考え、結果として暴力的な、相手を物のように扱う強制的な介護につながってしまう場合がある。特に時間に追われる状況では、そのことが正当化されやすい。

 そのことが撮影現場の、特に自分の場合は俳優を演出する時に重なりました。ある種の慣習として「俳優というのは、お仕事で感情を作ってくる人だ」とされています。それ自体は必ずしも間違ってはいないと思うのですが、感情で仕事をするということの大変さが十分に理解されていないという印象を受けていたんです。

――俳優が感情を作るための準備時間が、撮影現場において軽視されている、ということですか?

 そうですね。俳優が自分とは別人格の感情を表現するというのは、ある種の無理があるわけなので、まともにそれをやろうと思ったら当然、非常に準備の時間がかかります。しかし制作現場には「時間をかければお金がかかる」という現実がある。俳優に十分な準備時間を確保しないと、自分にはちゃんとした作品はつくれないと言っても、「普通はそこまでしない」と言われることも少なくありません。

 これは一体どうすればいいのかと考えていた時に、ユマニチュードが大きなヒントになりました。

 認知症の方は知性や精神性を失ったように見えることがありますが、それはあくまで認知機能が弱っているから、とユマニチュードでは捉えます。その特性を理解し、補うように身体的な形でコミュニケーションを取れば、本来持っていた知性や精神にアクセスが可能になり得る。ユマニチュードは、そうした考え方を身体の構造や病気の特性に基づいて体系化し、ロジカルで誰もが共有できる技法として使っている。それは演出のヒントになるのではないかと思いました。

 さらにユマニチュードには「人をよりよく扱うことで、介護する側も自らの尊厳を守ることができる」という大事な考え方があります。

 暴力的な介護をしてしまうと、それを自分の中で正当化する悪循環に陥ってしまい、「相手は何もわかっていないのだし、こうするしかない」と考えることで、認識の歪みが強化されてしまう。でも実際は、看護師や介護士も当然、人に対して人間的に接したいと思っているはずですよね。

 これは演出の現場も一緒だと思います。今回の現場でも、この現場の中心は俳優の感情なのだ、ということをスタッフたちに伝えました。スタッフから、この映画はすごく人間的で、素晴らしい現場だということを何度も言ってもらいました。これはでも、彼らが俳優を尊重したから起こることなのだと思います。周囲が、俳優の感情を本当に尊重すれば、想像を超えるような素晴らしいものを見せてもらえることがあります。その時にスタッフも、それを自分たちの仕事の一部として誇りに思える気がしています。

――今後の映画づくりにも、ユマニチュード的な技法を取り入れていきたいと考えているのでしょうか?

 そうですね。カメラは機械で、もう一方の被写体は個別の肉体を持っています。カメラを被写体に向けるっていう行為自体の特性をきちんと踏まえながら、その構造から必然的に生まれる問題に対処するような技法を自分のものにしていく。それはユマニチュードのあり方に大いに刺激を受けていますが、自分がこれまでやってきたことでもあるような気がしています。

――濱口監督の映画は「ワークショップ映画」だなと常々思っていたんです。何でも簡単に一言でまとめてはいけないんですが、監督は映画を作る前に俳優とワークショップをやり、『ドライブ・マイ・カー』のように映画の中でもそれを見せたりしますし、何かを組み立てていく部分を見せることが多いので。今回もユマニチュードの研修や、身体を使ったワークショップが印象的でした。

 ワークショップの入れ子構造になってますね(笑)。自分でも自分がなぜこんなにワークショップを題材にしているかわからないんです。演劇よりももっと日常的で、日常のなかのルールを一個崩すだけで、変なフィクションが現実に生まれる感じが好きなのかも知れません。

――先日のカンヌでの記者会見でも質問させていただきましたが、振付家・ダンサーの砂連尾理さんがワークショップの担当をされていて、監督は「体や動きを通してその人自身が現れてくる」とおっしゃっていました。そうした身体へのアプローチは、ユマニチュードや今回の原作とも通じるものがありますね。

 そうですね。今回引用している色々な技法や考え方が、どこかでこの原作にも通じているような気がしていました。だから、それぞれをつなぐものを探していくような感覚がありました。

 もちろん、それぞれのものがどうつながっているのか、そもそも本当につながっているのか、その時点で確信があったわけではないのですが、自分という同じ人間が同様に心を動かされ、深く興味を持っているのだから、きっとどこかでつながっているはずだと思ってやっていました。

――哲学者と人類学者による往復書簡集という原作を、「介護施設と演劇の物語」に置き換える発想は、どこから生まれたのでしょうか。

 原作者のお一人である磯野真穂さんとは何度もお話ししましたし、書いた脚本をお見せしてフィードバックもいただきました。その中で明確にあった要望の一つが、「自分たちの学問的な背景をどこかに反映してほしい」ということでした。

 二人の対話は、単に人生経験から生まれたものではなく、それぞれが学者として積み重ねてきた知識や思考の上に成り立っている。その部分を生かしてほしい、という希望があったんです。

 ではどうしようか、と具体的に考えていくことになりました。ユマニチュードという題材を選ぶことで入ってきた「介護」は、磯野さんのフィールドである医療人類学に近いので、設定として遠くはないだろうと考えました。

 一方で、宮野真生子さんの哲学の背景とどうつなげていくか。宮野さんは学生時代、哲学を専攻しつつ、演劇をかなり熱心にやられていて、演出を担当されていました。その演出ノートを、遺品として見せていただいたりしたことがヒントになっています。

 実際に脚本を書くにあたっては、パリに2カ月ぐらい滞在してリサーチをした際、訪ねた介護施設がまさにユマニチュードの導入半ばで、映画の中の状況と通じるところがあったんです。そこで一人はフランスの介護施設の施設長(マリー=ルー)。もう一人は、日本からフランスに来ている演出家(真理)にしようと考えたんです。

――日本ではなく、フランスで出会わせようと思ったのですね。

 フランスからのオファーもあり、ほぼパリで撮ることは決まっていました。真理が演劇の演出家だとすれば、フランスにいることもそれほど不自然ではない。そうやって、一つ決まると次が決まるというドミノ倒しのような形で固まっていったと思います。一足飛びに決まったわけではなく、一つひとつ積み上げていった感じですね。

――監督の作品を見続けてきて、ずっと「天才だな」と思っていましたが、天才なりにこうして一所懸命にドミノを積み上げているんだな、とわかって感激しています。「倒れなかったドミノ」がどれだけあるか、ということですね。

 そういうことですよね(笑)。

» 後篇に続く

『急に具合が悪くなる』

6月19日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

パリ郊外にある介護施設「自由の庭」の施設長マリー=ルー(ヴィルジニー・エフィラ)は、ユマニチュードという手法を取り入れて人間らしいケアを目指しているが、周囲の理解を得られずにいた。日本に留学経験のあるマリー=ルーはある日、日本人演出家の真理(岡本多緒)と出会い、彼女が演出する吾朗(長塚京三)の演劇を観に行く。同じ名前の響きを持つ二人は、人生について、社会について、一晩中語り明かすが、がんを患う真理の具合は急速に悪くなっていく。

次の記事に続く 「どうせフィクションでしょ」映画への“信仰のなさ”が強...