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父は丁稚奉公の傍ら、薬種商の資格を

「本来家を継ぐはずの長兄は、小学校を出ると自分で丁稚奉公の口を見つけてさっさと東京に出ていったんです。このあたりは都会に出るなら大阪で、東京に行く人間はすごく珍しかった。長兄は働きながら勉強し、戦前のことですが、これからは英語を勉強しなければダメだと、カナをふった『リーダーズダイジェスト』なんかを田舎に送ってきました。クラシック音楽が好きでレコードをたくさんもっていましたね。

 東京外語大学まで行ったけど、一時、共産主義に走り、大学をやめました。あの人は要領がよくて、兵隊にとられたが戦地には行かず、復員してきた時、軍の物資をトラックに積んでもってきました。もらってきたのか、かっぱらってきたのかな」

 この長兄を頼って、戦前、きのえも上京したのである。

 康が小学校6年生の夏休み、きのえが遊びにおいでと旅費を送ってくれ、上京した。太平洋戦争が始まった翌年のことである。この時、実雄と康のすぐ上の兄・五郎ときのえは三人で東京・本郷の下宿に住んでいたが、きのえはすでに世田谷の大蔵にあった第二陸軍病院で看護婦として働いていた。そしてそこで、衛生兵として働く小田信次と出会うのである。

 父・小田信次は、大正3(1914)年6月12日に東京・本郷で生まれた。兵馬によれば、

「祖先は津軽藩の江戸詰の武士で江戸小石川に住んでいた。東大農学部のところに屋敷があって、うちの寺はいまも、東大近くの湯島にあります。父の実家は明治にたくさんできた小さな銀行の一つで役員をしており、別荘を持つなど裕福な暮らしをしていたと聞いています。父も旧制中学に通っていましたが、昭和2(1927)年、多くの銀行が倒産した金融恐慌の折り、父の実家が役員をしていた銀行も倒産し、父信次は旧制中学を中退せざるをえなかったようです」

 信次は13歳の時、横浜・伊勢佐木町にある薬種問屋「桜井薬品」に丁稚奉公することになる。信次は昔の話をほとんどしなかったようだが、奉公していたころ、横浜の関内から逗子まで自転車で御用聞きに行っていた話は小田兄弟ともに聞いた覚えがあるという。

 信次は丁稚奉公の傍ら、薬種商の資格を取ろうと、夜中、電灯がついているトイレの中で勉強し、睡魔に襲われると膝に針を刺して頑張ったというが、こういった逸話も、兵馬は父の死後、父が書いた文章から知るのである。

 信次が薬種商の資格を得て薬舗開設許可が下りたのは昭和16(1941)年12月。丁稚になって14年目。太平洋戦争勃発の前日だったという。そして信次はすぐに、横浜のはずれである金沢文庫駅近くに薬局を開く準備を始めている。当時は、駅舎と畑とわずかな家があるだけの場所だったが、ちょうどこの直前、品川と横浜を繋ぐ京浜電気鉄道と横浜と三浦半島を結ぶ湘南電気鉄道が合併し、のちに京浜急行電鉄となり、金沢文庫駅は便利になると信次は見通していたのだろう。

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2023.12.01(金)
著者=追分日出子