チェコの歴史とともに歩んだミュシャの生涯
時は20世紀初頭のパリ。アールヌーヴォーが一世を風靡していた時代、画家としての才能が見出されたアルフォンス・ミュシャ。当時30代前半だった彼の画家としての成功は「Gismonda(ジスモンダ)」から始まりました。舞台女優サラ・ベルナールを美しいアールヌーヴォーのタッチで描いたこの作品は、フランスじゅうでたちまち評判となり、ミュシャは揺るぎない地位を手に入れます。
ミュシャがパリで過ごしたのは、約20年間。その間、彼は商業的な作品を中心に描き続けます。この時代に残した多くの作品は、現在プラハのミュシャ美術館で実際に見ることができます。
経済的にも充実した日々を送っていたミュシャですが、1910年には故郷のチェコへ戻ります。当時のチェコは、第一次大戦勃発前のオーストリア=ハンガリー二重帝国による支配下。民族も歴史も異なる帝国による抑圧のなか、チェコがチェコであるために、チェコ人がチェコ人であるために、民族のアイデンティティを模索し、そして守ろうとする民族復興運動の真っただ中でした。戦後の1918年、チェコスロヴァキア共和国の誕生までに、たくさんの芸術家、音楽家、作家たちが、祖国のために素晴らしい作品を残した時代でもあります。この運動に感銘を受け、ミュシャもこの時期、愛国者として多くの仕事を手がけます。
1860年7月24日、モラヴィア地方の田舎町イヴァンチツェで生まれたミュシャ。子供の頃から絵が得意で、23歳のとき、ミクロフのとある伯爵がパトロンとなります。現在でもミクロフの町には彼の滞在した家が残っており、玄関には彼の記念碑が掲げられています。その後、経済的援助を受けた彼はミュンヘンの美術アカデミーへ通い、才能が開花するパリへ向かうことになります。
ミュシャの才能はとどまることなく、さまざまな美しい作品をこの世に生み出してきました。しかし時代の流れとともに、彼の祖国を想う熱い思いは無残にも引き裂かれていきます。1939年にはナチスドイツによる策動により、チェコスロヴァキア共和国は解体。チェコに対する特別な愛国心を持っていたミュシャは逮捕され、厳しい尋問を受けることになります。当時79歳だったミュシャには、精神的にも体力的にも耐え難いものだったのは間違いありません。1939年7月14日、釈放された4カ月後に彼はこの世を去りました。彼のお墓はプラハ市内のヴィシェフラドの民族墓地にあり、見学することができます。
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文・撮影=クレメントゆみ子