日本の三大美人は、秋田美人、京都美人、沖縄美人だそうである。この中で、沖縄美人だけは、太古の昔まで話を遡らなければ美しさの理由が見えてこない
紀元前の生存競争と、明治からの価値観の変化がもたらした美人の定義に、思いを馳せてみたい。
石器時代まで話を戻して顔の成り立ちを考える
所変われば、美人も変わる……このコラムが生まれた背景に、「風土や生活習慣、文化などが、ヒトの美しさを形作る」という地球の摂理があったのは言うまでもないが、今回のように、先史時代まで遡って顔の歴史を紐解いたケースはなかったかもしれない。
「沖縄にはなぜ美人が多いのか?」
どこまでも単純に、地域特性からハーフやクオーターが多いから? などと考えてしまいがちだが、身近に思えたこの命題に答えを出すには、実のところ話を石器時代まで戻さなければならないのだ。
よく言われるように、日本人は、縄文人と弥生人のハーフである。
縄文時代が始まったのは1万5,000年ほど前、それが紀元前4~3世紀ごろまで続くわけだが、弥生時代が始まるのも紀元前4~3世紀。
つまり重なる時間が極めて長く、紆余曲折ありつつ弥生時代へと移行していったと考えられる。その間に縄文人と弥生人のDNAが自然に混じり合っていくのである。
縄文時代は日本列島がもともと大陸と陸続きだったころに始まっていて、縄文人は大陸から渡ってきた、当時の世界標準の顔をした人々がルーツ。
一方の弥生人はシベリア経由の渡来人である。面白いことに、両者の顔立ちはそれぞれの土器の装飾と同様、全く対照的だった。
縄文人は、彫りが深くて四角張っている濃い顔。弥生人は、凹凸が少なく目は一重、鼻も低めな薄めの顔。
この両者のミックスが、日本人の顔という訳だが、現代の平均的な日本人の顔は、約7割が弥生顔であると言われる。
縄文顔と弥生顔はどのようにミックスされたか
そもそも弥生人の方が優位になった理由は、いわゆる農耕民族であった弥生人は、米や野菜を作り、栄養状態が良かったために生命力の点で優ったこともあるが、弥生人が日本に持ち込んだ感染症のせいで、縄文人の人口が大幅に減ったとの説もある。
以降、日本は江戸時代まで弥生顔を美しさの基準としてきたが、明治期に欧米文化が入るとともに、約2,000年ぶりに縄文顔=美人説が復活する。
その後にわかにクローズアップされるのが沖縄の顔。文字通りの離島である沖縄には、弥生人の影響があまり及ばず、その顔立ちも縄文人の傾向が色濃く表れている。
また沖縄は紫外線の量が多いことで、程よいメラニンが引き締まったなめらかな肌を作った。
さらに縄文人は立体的な顔立ちであることに加え、狩猟民族であったことから、走るのに適した長い手足が特徴だったとも言われる。存在自体が丸ごとエキゾチックなのはそれがため。
Text=Kaoru Saito