フレグランスには庭をイメージしたものが極めて多い。とりわけ天才調香師ほど庭に魅了され、庭園にインスパイアされた香りを数多く世に送り出している。
それは一体なぜなのか? 「エルメスの庭園シリーズ」を通じてこれを探る。
庭の思い出は、芳しき香りの思い出だったりする
人はなぜここまで庭園を愛するのか? その答えを出す上で、とても重要な要素のひとつとなるのが、実は香り。
庭には必ず匂いがある。庭の思い出は、芳しき香りの思い出でもあったりする。
嗅覚は時に視覚以上の記憶力を持ち、忘却の彼方にある過去をも引き出してしまうほど。
そしてまた嗅覚は、行ったこともない場所を匂いだけでまるでデジャヴのように景色にすることができるほど、優れた想像力を持っている。
そう、だからフレグランスには庭園の記憶を絵画の如く表現したものが少なくないのだ。
新しい傾向であるヴィーガンフレグランスにおいても「クヴォン・デ・ミニム」が、タージマハルや、アルハンブラ宮殿の庭をイメージした香りを発表している。
その調香を手がけたのが、天才調香師の名を欲しいままにしてきたジャン=クロード・エレナ氏……。
実はこの人こそ、香水通でなくても知っている“香りの概念を変えたエルメス「庭園シリーズ」”を創造した人なのだ。
一度引退したものの、創作意欲は衰えを知らず、依頼を受けて創造した香りのテーマはやはり庭園。
調香師にとって庭はインスピレーションの源であり、天然香料の宝庫。何かの本能を掻き立てられるに違いない。
ナイルの庭、李氏の庭、地中海の庭、モンスーンの庭、屋根の上の庭……そのどれもが、庭の有様を映像のように浮かび上がらせる傑作とされるが、6番目の庭「ラグーナの庭」を手がけたのが、エレナ氏の後を継いだクリスティーヌ・ナジェル氏。
ジョー・マローン・ロンドンなどで数々の成功を収めてきたヒットメーカーにして、「香りの画家」とも呼ばれる類稀な感性を持つ女性だ。
下の写真はそのイメージの源となったベネチアにある庭を、カメラに収めたものだ。木々のさざめきや鳥のさえずりが聞こえる一方で、水の都ベネチアではそこに海風が忍び込む。
浅瀬に囲まれた小島にひっそり佇む秘密の庭、ナジェル氏にとってそれはずっと夢見ていた理想郷のような庭であるというが、瀟洒な館からは室内楽の心地よい旋律が聞こえるよう。
粗削りな部分のない端正な庭なのに、ベネチアの古い歴史を生きた貴族たちの恋の駆け引きさえもが聞こえてくる。
そんな夢の庭に出会ってしまった驚きと喜び、心の震えや幸福感までがそこに込められている気がするのだ。
目に見える美しさだけでない、香りと音の美しさ、そして極めて重要なのがあらゆる庭に共通する透明感。
とりわけ庭園シリーズ自体が、それぞれの庭が持つ透明感を賛美するための香りたちと言ってもいい。
人が足を踏み入れない透明もあるが、人間の夢を形にした透明もあるのだ。草木に芝、池、生垣に噴水、そうしたものの全てが清らかさを積み重ねていく。
見た人が立ち尽くす絶世なる庭園の命は透明度、だからこそ、庭は香水となって私たちに届けられるのだ。
「ラグーナの庭」はそれをしんしんと伝えてくれる。
香りの画家は凛とした気配が作る清冽を、マグノリアなどの花々と樹々の透き通るようなフローラルウッディによって描ききった。
その庭を愛し、1日中でも愛でていたかもしれない人々の崇敬までが伝わってくる香りである。
庭は極上の自然であると同時に人間の夢。だからこそこの世で一番美しい場所とも言える。天国の次に美しい場所、そう言ってもいい。
香りの芸術家たちは、だからここまで庭に心酔するのである。
エルメスジャポン
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齋藤 薫(さいとう かおる)
美容ジャーナリスト、エッセイスト。女性誌で数多くの連載を持ち、化粧品の解説から開発、女性の生き方にまで及ぶあらゆる美を追求。エッセイに込められた指摘は的確で絶大なる定評がある。この連載では第1特集で取材した国の美について鋭い視点で語る。各国の美意識がいかに形成されたのか、旅する際のもうひとつの楽しみとして探っていく。
Column
齋藤薫さんは、女性誌で数多くの連載を持ち、化粧品の解説から開発、女性に生き方に及ぶあらゆる美を追求している。この連載では、CREA Travellerが特集において取材した国の美について鋭い視点で語っていく。
Text=Kaoru Saito
Photographs=Quentin Bertoux, Hirofumi Kamaya(still life)