この記事の連載

心身のバランスを崩しがちな母と暮らしてきた映像作家の中村佑子さんは、ヤングケアラー当事者の本当の感情がどこか置いてきぼりであるように感じていたという。中村さんが、病の家族に付き添う時間について綴ったのが『わたしが誰かわからない ヤングケアラーを探す旅』(医学書院)だ。執筆にかけた二年を経て、最後に別の風景が見えてきたという中村さんの同書より、一部を編集の上、紹介する。


固まることを禁じられた身体

 いまここで、本書の成り立ちを振り返ってみたいと思う。というのも、書き上げるまでわたしが右往左往した歩みそのものが、本書の本質的な問いにまっすぐにつながっていると思うからだ。

 まず、わたしははじめ母の精神科への入院に付き添った日々を書き、そこで出会った女性たちのかたわらにいて、彼女たちはわたしと変わらないと感じたことを書いた。彼女たちもわたしとともに病院の外に出られないだろうかと、苦しさと切ない気持ちのなかでもがいていた。

 精神疾患を抱える人を社会に戻そうとせず、長期入院を強いてしまう日本の精神科への疑問もわいたし、長期入院せざるをえない彼女たちにわたしは内なる連帯感を抱いた。その感情は、母に付き添って精神科病院という謎の多い文化に長らくつきあってきた時間のなかで育ってきたものだった。そして彼女たちとのおぼつかない、はかない連帯を、薄氷のような連帯と名づけたのだった。

 精神疾患を抱える家族をケアしてきた子について、書こうと思った。それは、いまの言葉では「ヤングケアラー」といわれる。それはわたし自身でもあるし、精神科病院にいる彼女たちもまた、家に子どもたちを置いてきていた。その子らはヤングケアラーかもしれないし、そもそも入院している彼女たち自身も、かつて家族をケアしてきた子だったかもしれないと、会話のはしばしから薄々感じていた。わたしは、女性たちの取材をはじめた。

 二件の成果物があり、二件のお蔵入り原稿が発生した。二件のお蔵入りに要した時間はゆうに五か月を超えていた。その間わたしは二人目の子どもを出産し、新生児を抱えながら取材執筆した原稿がボツになったのだ。

 わたし自身は初対面だった人への取材。その前からいくつかのボタンの掛け違いもあって、新生児との生活のなかで絞り出すように書いた原稿が表に出せなくなって、ここでわたしはたいへんに疲弊し、落ち込んでしまった。

 まずはいったん、自分のヤングケアラーとしての経験を書いたが、そのあと思い悩んで、また書けなくなった。その日々を打開したいとも思い、ユング派分析家の猪股剛さんにお話を聞きに、というよりも、自分の話をしに出かけたのだ。

 そうしてまた書きはじめ、かなこさんのお話を聞いた。

 こう書いていても、めちゃくちゃである、書けない旅。書きたい、でも書けない、暗中模索の旅のようである。無計画といわれてしまいそうだが、実はこうした右往左往はわたしの一つの手法ともなっている。

 いつもそういうところがある。はじめに何が描けるのか措定しない、したくない。全体を見渡さない。見渡して計画を立ててしまうと、何かもっと底の深いところでうごめいていたものが失われ、死んでしまうという感覚がある。

2024.02.13(火)
文=中村佑子