一枚の絵画を眺め入る人だけに生まれるオーラがあった

 以前宿泊したホテルでの出来事。エレベーターホールに何度も同じ女性の姿を見かけた。しかもその人は、エレベーターに乗るわけではなく、いつも壁のほうを向いている。

 最初は気にも留めなかったが、日が変わっても同じような佇まいの女性が同じ場所にいて、昨日見かけた人と同一人物だろうかと、にわかに気になってくる。顔は見えないが、さらにもう一度、同じ光景を見かけた時、ある確信とともにその意味をようやく理解したのである。

 私は、古い映画のワンシーンを思い出していた。ヒッチコック映画の中でも最もドラマチックな名作『めまい』。元刑事である主人公は、友人から依頼を受け、友人の妻の行動を密かに追うことになるが、美術館で、一枚の肖像画に見入っていた夫人の後ろ姿に釘付けになる。翌日も姿を追うと、彼女はまた同じ絵画の前で無心にそれを眺めていた。

 背後から見たその人の、プラチナブロンドの巻き毛に心惹かれたことから、思わぬ事件に巻き込まれていくというサスペンスだが、まさにそのシーンがまざまざと蘇ってきたのだ。

 美術館で一枚の絵画の前に長い時間立ち尽くすように、それに見入っている人だけに生まれるオーラ……そういうものがあるということだろうか。自然界の景色に見惚れるのとはまた違う、それを描いた人と、眺め入る人との抜き差しならない関係がそこに生まれるからか。まるで魂を捕らえられたような気配を生むからなのだろう。それがオーラとなって、第三者をまた釘付けにするのである。

 通常、美術館では何日も続けて一枚の絵を見ているという、そういう姿にはさすがに出くわさないが、アートを飾ったホテルでは、お互い日付を越えて滞在するから、絵画や美術品に心を奪われた人に、波及的に心を奪われてしまうことが起こり得るのである。

美術館ではありえない距離感で、繰り返しその絵に抱かれる

 それは、いわゆるアートホテルという打ち出しはしていないものの、シティホテルの中では別格と言っていいほど素晴らしい美術品を全館に配しているパレスホテル東京でのひとコマだった。

 皇居外苑を望む絶好のロケーションに違わない、唯一無二の品格と上質極まるサービスを提供してきたパレスホテル東京は、改装によってにわかに日本有数の憧れのスポットとなったわけだが、魅力のひとつは、日本人アーティストの作品を中心に約720点の展示という圧巻。

 それも「自然との調和」というブランドコンセプトを具現化するように、作品群を“庭巡り”と位置づけているのだ。まさに“パレス・ガーデン”を歩くように全館をアート鑑賞にそぞろ歩く提案。自然をアートの息吹と共に全身で感じとるというこの試み、素晴らしいと思ったが、それを目的にこのホテルに宿泊する人は、果たしてどれだけいるのだろう。でも逆に、人にとって、美術とは“出会い”。何も知らずに憧れだけで宿泊して、偶然そこで人生でも指折りの作品に出会ってしまったとしたら、なんと素敵な出会いだろう。

 少なくとも、私が見かけた女性はそういう驚きと喜びに満ちていた。一日に何度も繰り返しその絵に抱かれる。美術館ではありえない距離感で、まるで自分の家に飾られた絵を肌で感じ取るように。まさにそれは、アートホテルだけに許された時空の提供!

 ちなみにそれは、《皮膜/向日葵―2012》(片山雅史)という作品。花芯部を限界までミクロの目でマクロに描いたものだが、その螺旋は自然界におけるいわゆる“黄金比”の一つに挙げられるほど揺るぎない法則に基づいたもの。だからこれほど図形的でありながら芸術的なのだ。生命の神秘が息づくその法則が同時に描かれている気がして、私自身もしばらくそこを立ち去れなかった。

 もちろんその人は、そんなふうに私が密かに見ていることには全く気づいていない。そんなふうに何かに魅了されている人の姿を、第三者がまた眺めて魅了される、美が作るそうした連鎖も、旅の小さな喜びなのかもしれない。

パレスホテル東京(東京・丸の内)には絵画、彫刻、造形物など、合計約720点のアート作品が飾られている。宿泊者限定のアクティビティとして、館内アートを監修したアートフロントギャラリーのスタッフが、ロビーをはじめ、客室やレストラン、宴会場などのアート作品を解説する「館内アートツアー」も実施。14日前までの予約が必要。
時間:約60~90分間、料金:1グループ(4名まで) 5,500円

パレスホテル東京

電話番号 03-3211-5211
https://www.palacehoteltokyo.com/

齋藤 薫

美容ジャーナリスト、エッセイスト。女性誌で数多くの連載を持ち、化粧品の解説から開発、女性の生き方にまで及ぶあらゆる美を追求。エッセイに込められた指摘は的確で絶大なる定評がある。

Column

齋藤薫のTRAVEL NOTES「心に残る時間」

さまざまな女性誌で活躍する美容ジャーナリストの齋藤薫さんが、旅の中で出会った“美”をきっかけに感じたことを綴ったエッセイ。

文=齋藤 薫