その頃すでに大学から遠ざかり、コピーライターへの興味も喪失していた彼女は、高校以来の自分の得意技「消しゴム版画」を武器に雑誌業界で生きられないかと考えた。

 テレビ批評コラムは、89年、10代向け少女雑誌「ポップティーン」で初めて書いた。その冒頭、26歳のナンシーの言葉。

「若者よ、ばかを恐れるな。ばかになるけどテレビを見よう。テレビはぜんぜんこれっぽっちも役に立たないけどおもしろいぞ。何いってんだかなぁ」

 

 最後の「何いってんだかなぁ」は自分の発言に対する批評「自分ツッコミ」で、ナンシーの文体の特徴である。「心に1人のナンシーを」といったのは、のちに「CREA」誌上で対談を連載した民俗学者の大月隆寛だが、それは誰でも自分に対する批評眼を忘れるな、の意味であった。

「町内」を代行した民放テレビ

 1960年代に番組の基本形を開発しつくした感のある民放テレビは、70年代には視聴者参加の方向へ向かった。その最初の番組が71年、素人の少年少女に歌わせ、最後に各芸能プロダクションがせり落とす『スター誕生』である。78年には、歌謡番組『ザ・ベストテン』が始まり、80年、漫才ブームを起こす『THE MANZAI』が放映された。関直美がナンシー関となった85年には、久米宏がキャスターをつとめる『ニュースステーション』が始まった。

 80年代後半の民放テレビ、ことにトーク番組とワイドショーは日本社会の反映そのものと思われた。トーク番組に出没するタレント(お笑い芸人)たちが、失われて久しい「町内の人々」を代替するなら、ワイドショーは「町内の噂」の代行者である。そこで語られることはすべてが「楽屋落ち」または「全国的ウチワウケ」の様相を呈するのは、すでに「全国一町内」なのだと考えれば腑に落ちる。

「とほほー」によって出来る国民感情

 そのような民放テレビの好業績と極端な大衆化、消費人材として多数の「タレント」「お笑い芸人」を必要とする時代に、ナンシーはテレビとのつきあいを深くした。元来、強度の近視で、普段は人の顔もよく認識できない彼女だから、テレビの生理である「クローズアップ」と元来親和性があった。ナンシー関は部屋に閉じこもって画面を凝視しながら、彼らの「騒々しい芸」による自己主張と、「テレビ的人間関係」の中での生き残りへの努力を批評的に見ようとした。それはバブル経済前後の日本社会の姿そのものであった。

2021.12.11(土)
文=関川 夏央