稀有な人生を真摯にまっとうした
ラグーザお玉、その経歴と功績
ヴィンチェンツォ・ラグーザ作。パレルモ帰郷直後の作品で、当時22歳であった若きお玉さんの様子がよくわかる。
ラグーザお玉の西洋画家としてのキャリアは、伊藤博文が工部卿を務める工部省管轄下で設立された工部美術学校(東京藝大の前身)に西洋美術教師として招聘されたイタリア人彫刻家ヴィンチェンツォ・ラグーザとの出会いから始まりました。
粉本(ふんぽん)を手本に伝統的な日本画を学んでいたお玉に、遠近法や陰影法、“写生”という対象物へのリアルなアプローチ方法など、当時の日本では斬新なリアリズムを基調とした西洋画の技法を教えたラグーザお玉の才能を早くから見出し、日本滞在中に収集した約2000点もの古美術のコピー画製作を依頼したことで親交が深まり、ふたりは1880年に結婚しました。
お玉が西洋の技術に刺激を受けたように、日本工芸の独創性に感銘を受けていたラグーザは、イタリアの美術工芸発展のため、パレルモに東洋芸術学校の設立を計画。お玉と漆器・刺繍の職人を伴い1882年に帰国すると、私費を投じて学校を設立しました。ラグーザが校長、お玉が副校長まで勤め上げたこの学校は、「ヴィンチェンツォ・ラグーザ・オタマ・キヨハラ国立美術学院」として、今でもパレルモで教育を行っています。
1891年パレルモ万国博覧会に出展された作品で、キリスト昇天祭の夜の海岸の賑わいが描かれている。しかし祝祭の歓喜に満ちた風情を暗闇で表現したことや、画面を斜めに貫くサーチライトなどの構成が非常に特異な作品で、オリジナリティにあふれた作者の資質をよく示している。
製作年は不明だが「1920年頃から活動後期のものと推測される」とスパダーロ教授。後期は日本へのノスタルジーか、はたまたジャポニズムブームからの依頼が増えたためか、着物の女性を多数描くようになった。
後進の育成に励み、自身の製作活動にも飽くことのない情熱を注いだお玉は、ニューヨークやベネチアの国際美術展覧会で最高賞を受賞するほか、1891年に開催されたパレルモ万博にも出展。
パレルモの社交界にも親交厚く、70歳を超えてもなお制作依頼が絶えない活躍の最中、帰国が叶ったのが1933年のこと。51年ぶりに祖国の土を踏んだときには、日本語をすっかり忘れていたといいます。
明治から昭和初期、激動の時代をパレルモで生きた日本初の女性西洋画家“ラグーザお玉”の回顧展の開催期間は2017年5月12日~7月28日。この時期にパレルモご旅行の際は、ぜひ訪れてみてはいかがでしょう?
『O'Tama e Vincenzo Ragusa: un ponte tra Tokyo e Palermo』
会場 Palazzo Sant'Elia-piano nobile
所在地 Via Maqueda, 81, 90133 Palermo
電話番号 091-6162520
開館時間 火曜~金曜 9:30~13:00/15:30~18:30、土・日曜 10:00~13:00/16:00~19:00
休館日 月曜
料金 5ユーロ
http://www.fondazionesantelia.it/mostre/otama-1/itemid-206.html
岩田デノーラ砂和子
2001年よりイタリア在住のライター/コーディネーター/通訳。現在はシチリア州パレルモ在住。イタリア専門コーディネートチーム「Buonprogetto.com」を主宰するほか、個人旅行者向けイタリア旅行サイト「La Vacanza Italiana」を運営。イケメン犬ボン先輩とヤラカシ系イタリア人の夫との日々を綴るBLOG「ボン先輩は今日もご機嫌」が、ただ今人気急上昇中!
文・撮影=岩田デノーラ砂和子