感受性の問題なのか、幼いころから霊感に乏しく、怪奇現象というものに出くわしたためしがない。

 小学生のとき、近所の産婦人科の庭石だか門柱だかに水子の霊が出るとの話を聞き、友人と見に行ったことがある。

 友人は、あそこだ、たしかに顔が見える、と喚いていた記憶があるが、悲しいかな、私の目には何も映らなかった。

 函館の私立学校に通っていた高校時代には、テレビで著名だった霊能力者が、×月×日×時×分、函館で大地震が発生、町が壊滅する、などと予言し(たという噂が立ち)、寄宿していた寮で大騒ぎとなった。

 予言を信じた寮生は夜中に部屋を抜け出しグラウンドに避難、なかには無届けのまま実家に帰省した者までいたが、幸か不幸か大地震は起きなかった。

 昔は一人で山小屋に寝泊まりすると、遭難者の亡霊が出るかも、とちょっと怖い感じもしたが、今では太陽の昇らない暗黒の北極で何十日間と一人で過ごしても何も感じない。

 オカルトに魅かれるわけではないが、霊的体験のないまま終わるのかと思うとすこし寂しい気もする。

 だが、そんな私にも、たった一度だけ、あれは何だったのだろうと今でも不思議に思う体験がある。

 先ほど触れた暗黒の北極での長い旅でのことだ。そのとき私は出発地である村から氷河を登り、内陸氷床を歩いて北にむかっていたのだが、GPS等のナビゲーションツールを持っていなかったため、自分がどこにいるかよくわからなくなっていた。

 広漠とした氷床では星空以外何も見えない。人は空間的な位置を見失うと、このままでは変な場所に出て帰れなくなるのではないか、との根源的恐怖をいだき、なかばパニックとなる。

 俺はどこにいるんだ、位置を知りたい、位置を知りたい……とそればかり願っていた、そのときだ。

 氷原のはるか彼方に、オレンジ色の眩い火の玉がビカッと光ったのだ。

 火の玉は数秒見えたあとに、動かずに、消えた。

 一瞬、流れ星かと思ったが、そうではない。まちがいなくあれは人工的な光、ランタンの炎の光だ。

 私はそう確信した。それしか考えられない。

 おそらく村のイヌイットが何か理由があって氷河を登り、北にむかっているのだ。光が消えたのは雪原の起伏の陰にはいったからだろう。

 私は火の玉の場所に行こうと思った。あそこに人がいるなら絶対にGPSを持っているはずだから現在地を教えてもらおう、と虫のいいことを考えたのだ。

 しかし火の玉が光ったあたりに着いても、当たり前だが誰もいなかったし、橇のランナーの跡もなかった。

 冷静に考えれば、真冬の暗黒の氷床にむかう人間など、国家権力に強制でもされないかぎり、いるわけがないのである。

 その後、二度と同じ火の玉を見ることはなく、正体もわからないままで終わったが、流れ星ということは絶対にない。

 流れ星など三十分に一回ぐらいの頻度で見たが、光り方、動き、色合い、発光の強度等、すべてにおいて全然ちがう。何もない雪原なのでセントエルモの火ということもありえない。

 だとしたら、もしかしてUFO? まさか……。

 なんだかよくわからないが、ああいうのを昔の人は霊魂と呼んだのかもしれない、とは思う。

角幡唯介(かくはた ゆうすけ)

ノンフィクション作家、探検家。1976年、北海道芦別市生まれ。早稲田大学卒、同大探検部OB。2016年12月から太陽の昇らない暗闇の北極圏を80日にわたり一人で探検。その体験を綴った『極夜行』(文藝春秋)で'18年、YAHOO!ニュース|本屋大賞 ノンフィクション本大賞と大佛次郎賞を受賞。近著に『極夜行前』(文藝春秋)、『そこにある山‒結婚と冒険について』(中央公論新社)がある。

Column

角幡唯介の「あの時、あの場所で。」

角幡唯介さんは、開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞などを受賞している気鋭のノンフィクション作家。これまでに訪れた世界の津々浦々で出会った印象的な人々との思い出を、エッセイとして綴ります。

文=角幡唯介
絵=下田昌克