夜の美しい都が好きだ。

 仄かな明かりが石畳に灯り、美しい闇に包まれながら、人々は美味しいお酒と食事を囲んで一日を語る。大都会の摩天楼やネオンのショッピング街とは違う、慎ましやかで足るを知る温かい光。夜の帳とばりをまとう路地の奥の扉を開けば、老いも若きも一緒に肩を並べて、歌い継がれた自慢の歌を謳い、いつしか手に手を取って踊りの輪が生まれる。そんな夜がむしょうに恋しくて、気づけばいつも旅支度を始めている。

 東洋と西洋が出会う都、ハンガリーのブダペストには、遠い記憶の彼方の故郷のような、懐かしい夜がある。闇に耳を澄ませば、ジプシー楽団のヴァイオリンのしらべに、誰もが口ずさむ童謡や民謡の詩に、幾百年も人々が行き交い、降り積もった「音」が聴こえてくる。

東方起源の騎馬民族のルーツを誇るハンガリー。人と馬は強い絆で結ばれ、今も「馬飼い」の伝統が残る。馬たちの人への信頼の眼差しに感動した。

 ハンガリーの人々は、自分たちを「マジャル」と呼ぶ。遥か昔に東方を旅立ち、ユーラシア大陸を西へと進んだ騎馬民族「マジャル」の血を誇り、東洋の極みの私たちの国を、まるで兄弟のように想い慕ってくれている。日本語クラスのある学校も数多く、小林一茶や松尾芭蕉の俳句をすらすらと口にするマジャルにも何人か出会った。西洋の入り口のような異国で、これほど日本を感じるとは……。

 そのとどめは、マジャルの民族フェスティバルだった。自分たちのルーツを口にすることも許されなかった抑圧の時代を経て、まるで砂漠が水を吸い込むように、魂の故郷を探すムーヴメントが人々の中に沸き起こっている。

 その夏、ハンガリーの大平原で催された“KURULTAJ”というフェスティバルには、カザフスタン、トルコ、セルビア、ブルガリア、クロアチア……様々な民族が一堂に会し、それぞれの誇る美が披露された。各々持ち寄った民族楽器や衣装は、花々が咲き誇る野原のようにカラフルで、音や形や色の中に、国境など軽々と越えて、互いに結びついてきた証が読み取れて心から嬉しくなった。

 せめて日本の情緒をと浴衣で参加した私は、目の前で繰り広げられる、日本以上に「日本」を醸す文化に目を見張った。 まるで、黒澤明監督の映画『乱』や『影武者』を観ているよう。さっそうと旗を翻 し、鎧や袴で駆け抜けてゆく騎馬軍団。弓道や鷹匠の凛々しく見事な技。馬にまたがった裸の男たちが組み合って相手を落とす騎馬戦。「オス!」のかけ声で始まる武術や剣術。今まで私たちが日本文化として海外に誇ってきたものは、実は、海の向こうの広大なユーラシアに源があったのだ。

「音」にも、西と東を結ぶ旅の証は潜んでいる。それぞれの音楽に耳を傾ければ、馬とともに旅をした人間の息づかい、馬の背にゆられるのどかな歩調、大地を駆け巡るときめきのリズムが聴こえてくる。

 太古の魂と繋がる悦びを教えてくれた大平原の宴以来、私は「音」を巡る旅を続けている。聴いて、感じて、世界を結びつけてゆきたくて、「LISTEN 1001」というテレビシリーズを立ち上げた。ハンガリーからバルカン半島、ボスポラス海峡を越えて地中海へ、未来に伝えたい大切な音を辿る旅は今も進行中だ。

 もちろん、記念すべき第一話の舞台は、ハンガリーの大平原の夜明け。地平線から昇る大きな太陽を背に、馬飼いの男たちが馬の大群を駆り立てて、地響きとともに向かってくる。大地と繋がる足の裏から、体じゅうを駆け巡った命の躍動のリズムは、今でも忘れられない。

山口智子(女優)=文・写真