ときは1900年代の初めころ、インドネシアがまだオランダの植民地であった時代。当時のバリ島の王、チョコルダ・スカワティらは、外国人アーティストたちと親交を深めながら、今日に知られるバリ舞踊を保護し、発展の礎を築きました。
オランダ人芸術家のルドルフ・ボネは、オランダのユリアナ女王に「このたいへん美しい島には賞賛すべき優れた舞台芸術が存在している」と手紙をしたため、1931年には史上初となる「バリ舞踊世界公演」のきっかけをつくるなど、この小さな島のなかに眠っていた舞踊という宝を、世に知らしめる大きな役割を果たしています。
その後、独立運動など激動の時代を乗り越えて受け継がれた伝統舞踊は、建国間もないインドネシアを世界へ紹介するという大役を担い、スカルノ大統領主導のもと、1952年に第2回目の世界公演を行います。当時のバリ島を代表する舞踊家、演奏家たちによるステージは、世界各国のメディアから注目を集め、南の海に浮かぶ美しい国と、そこで育まれた芸術の素晴らしさに賞賛が送られる大成功を納めました。その公演の花形として活躍したのがイ・グスティ・アユ・ラカ・ラスミ(I Gusti Ayu Raka Rasmi)。バリ舞踊を代表するレゴン舞踊のチョンドン役として、また美しい歌と舞を繰り広げるジャンゲール・プリアタン歌舞劇の舞踊家として、 神がかった踊りを披露し、人々に衝撃を与えたのです。
それから時は流れて約60年。現在では、レゴン舞踊やケチャダンスをはじめとしたバリ舞踊は、観光の目玉としてすっかりおなじみ。しかしジャンゲール・プリアタン歌舞劇は世界公演の後、なぜか人々の前からすっかり姿を消してしまいます。きっとバリ島好きの方でも、よほど舞踊に興味があったり、舞踊を習っている人でもない限り、その存在を知らない人は多いことでしょう。そこで、かつてを知る舞踊家たちが、このままではこの優れた舞台芸術が消滅してしまう、と立ちあがりました。
text:Yoko Yoshida
photographs:Doddy Obenk