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恋愛的な親密さが生まれないことへの安心感

 実をいうと、映画の始まり方に少しだけ不安を覚えた。人生に行き詰まった30歳間近の女性が、年上の男性に癒され、人生を教えられるうちに明るい未来へと導かれていく。そして二人の間には恋愛に似た親密な関係が築かれる。そういうありがちな物語になるのでは、と感じたからだ。けれど、穐山監督はそんな使い古された物語には背を向ける。

 まず、安希子とササポンとの間には恋愛的な親密さはいっさい生まれない。彼は、安希子の人となりには興味がなく、ただ毎月家賃をおさめ、最低限のルールを守ってくれる同居人であればいいと思っているらしい。その飄々とした態度に、警戒していた安希子も、そして見ているこちらも拍子抜けすると同時に胸を撫で下ろす。

 友人のヒカリは、同居を勧める際、たしかこう言っていた。「今のあんたは、誰かと住んだほうがいいよ」。その言葉の意味が、映画を見るうちだんだんと見えてくる。安希子の心を蝕んでいたのは、単に仕事や恋愛がうまくいかない不安ではない。彼女は、他人と自分を比べては、理想像に届かないことにただただ焦りつづけていた。アイドルをやめても落ちぶれてなんかいない。大丈夫、自分の人生はうまくいっている。ポジティブな言葉は、呪いのように彼女の心をがんじがらめにする。

 そんな彼女の心の扉を、ヒカリは他人との同居という形でどうにか開かせようとしたのだろう。それにしても、ササポンという人は謎めいた人物だ。ふだんの生活は極めて地味で、家族や友達関係もよくわからない。同居人と積極的に交流する気はなさそうで、安希子が「自分は本当はこんな場所にいるはずの人間じゃない」と言い訳しようと、「どうせ自分なんて」と卑下しようと、特に反応は示さない。かといって一切交流を断つわけでもなく、いつもしっかり話を聞き、必要最小限の言葉を返してくれる。

 何より、二人が暮らす家での位置関係が絶妙だ。普段は個室で過ごす二人は一階にある共有スペースでしばしば顔を合わせるが、並んで一緒にご飯を食べたりはしない。安希子がキッチンのテーブルで仕事をし、隣のリビングでササポンがテレビを見ながら晩酌をする。ときには、一人の時間を満喫するササポンの様子を、安希子が二階の部屋からじっと観察したりもする。この不思議な距離感が警戒心を解いたのか、やがて二人は自然と隣りあい、向かい合って座ることにもなる。ただし適切な距離は保たれたままだ。

2023.11.30(木)
文=月永理絵