世界を旅する女性トラベルライターが、これまでデジカメのメモリーの奥に眠らせたままだった小ネタをお蔵出しするのがこのコラム。敏腕の4人が、週替わりで登板します。

 第46回は、芹澤和美さんが会津若松で出会った伝統織物の魅力について綴ります。

豊田織機が現役で働く老舗の木綿工場

 昔ながらの蔵や町屋造りの建物が建ち並ぶ会津若松市・七日町通り。その近くに、ガシャンガシャン……と、どこか懐かしい機械の音を響かせる織物工場がある。明治38年創業、百年続く会津木綿織元の「山田木綿織元」だ。

三代続く、「山田木綿織元」。会津木綿の歴史は今から約400年前にさかのぼる。当時は、農家が綿花を栽培し、藩士の妻たちが機織りを行う、会津藩をあげての一大産業だった。

 音を立てているのは、黒光りする古めかしい織機たち。なんと、大正末期から昭和初期にかけて豊田自動織機が開発した2000台のうち、現存する26台という貴重な機械だ。古いので故障もあるが、そのたびに修理や部品交換をくり返し、いまだ現役稼働中。最新の機械なら3倍の速さで織ることができるが、光沢が出すぎてしまい、会津木綿ならではの素朴な風合いが生まれない。そのため、この機械でなければならないのだという。

「山田木綿織元」の工場にお邪魔。ガシャンガシャンと働く古い織機は、大正初期に作られたもの。

 布を織るのは機械でも、熟練工の手は不可欠。経糸(たて糸)の組みを一つ間違えただけで、会津木綿の特徴である美しい縞模様が変わってしまうし、髪の毛一本でも入れば、大事な反物に傷がついてしまうからだ。作業には、丹念な手仕事が要求される。経糸形成を担うのは、この道50年の熟練工。織機と人間の巧みな連携プレーで、一日で40~50反を織りあげる。

最新の機械を使っている工場なら、光センサーで糸が切れたことを感知する。でも、「じっと触っていれば、糸の調子は分かります」と熟練工。ここでは、最新の設備より優れた人の手があるのだ。

 現在、会津木綿の織元は、この「山田木綿織元」を含め2軒のみ。最盛期の大正末期には、会津市内に三十数軒の工場があったものの、主要商品だった農作業着の需要が減ったことや、安い化繊が輸入された影響などにより、多くの工場が廃業に追い込まれてしまった。ましてや、地味な縞の着物より洋服が主流の時代。そこで、「山田木綿織元」の先代が生み出したのが、今までの地味な縞模様とは一味違ったデザインだ。それまで寝巻きや布団の生地にしか使われなかった赤色にヒントを得て、カラフルな縞模様の生地を織るように方向転換。これが、じわじわと人気に。

 色はカラフルになっても、会津木綿を作り出すのは、オートメーション化された機械でも大量の人手でもなく、古くても実直な機械と繊細な人の手。それを証明するかのように、工場では、使っている機械も、置いてある位置も、昭和初期から変わらないままだ。

住宅街の中にある工場。建物も木造で、あったかな雰囲気。

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2014.08.12(火)
文・撮影=芹澤和美