本書の後半には、『富士日記』で人気の出た百合子が、自分のペースを守りながら書き綴った珠玉のエッセイが収められている。「草月」での連載をまとめた『ことばの食卓』(一九八四)は、食べ物を出発点にしつつ、例によって独特の視線でまわりの人間や社会をとらえたものだが、とくにオムレツ専門店でのひとこまが描かれる「夏の終り」は、「枇杷」とならぶ絶品。「挿花」の連載をまとめた『遊覧日記』(一九八七)は浅草の蚤の市から藪塚のヘビセンターまであやしげな場所への探索の様子が描かれ、出てくる人物たちもより賑やかで、小説の一歩手前の境地を思わせる。

 周囲の勧めにもかかわらず武田百合子は最後まで“小説家”にはならなかったが、文章へのこだわりはプロのものだった。『富士日記』にしても、念入りな推敲をへて発表している。死後、書きかけのもの、未発表のものはすべて遺言に従い娘・花の手で処分された。人前に出るときには相応の覚悟を持つ、そんなたしなみを最後まで備えた人だったのだ。

2024.01.26(金)
文=阿部 公彦(東京大学教授・英文学)