百合子は楽しいことや心地良いことだけを見ていたわけではない。そうではない部分、恐いものや、嫌なものや、死をもいつも目の端でとらえている。だてに武田泰淳の妻ではなかったのである。泰淳という作家は、戦時中の人肉食事件を描いた「ひかりごけ」などにも見られるように、凄惨で深刻な状況をまっすぐにとらえる観念の屈強さを備える一方、そうしたのっぴきならない人間性の行き詰まりを、ふっと手品のように解放してしまうさばき方も知っていた。『富士日記』の世界もどこかそれに似ている。出てくるのは百合子や泰淳や娘の花をはじめ、近所の外川さん、大岡昇平、竹内(よしみ)、工事の人、追突してきたトラックの運転手、スタンドの人、野次馬、ちんぴら、お医者、犬などいろいろだが、そういう中で人間の付き合っていかねばならないことのぴんからきりまで(・・・・・・・・)と接しながら、力で組み伏せるような語り口には決してならないのである。

 日記はもともと泰淳の勧めでつけ始めたものだった。はじめは渋っていた百合子だが、「俺もつけるから。代る代るつけよう。な? それならつけるか?」と説得された。「どんな風につけてもいい。何も書くことがなかったら、その日に買ったものと天気だけでもいい。面白かったことやしたことがあったら書けばいい。日記の中で述懐や反省はしなくてもいい。反省の似合わない女なんだから。反省するときゃ、必ずずるいことを考えているんだからな。百合子が俺にしゃべったり、よくひとりごといってるだろ。あんな調子でいいんだ。自分が書き易いやり方で書けばいいんだ」(「絵葉書のように」)。

 泰淳のこんな言葉を受けてはじめた日記を、夫の死後、百合子はぱったりやめてしまう。やはり想定読者は夫だったのだ。死期を悟った泰淳が「生きているということが体には毒なんだからなあ」と口にしたとき、「私は気がヘンになりそうなくらい、むらむらとして、それからベソをかきそうになった」とふだんの書きぶりに少しだけ負荷がかかっているのがとりわけ印象的だ。(一四四ページ)

2024.01.26(金)
文=阿部 公彦(東京大学教授・英文学)