――勅撰和歌集に「自分の歌を載せてほしい」と訴えるような歌を応募したり、緊急時に仮病を使ったり、戦の現場でも何も考えてなかったり。それを懸命に直義と師直が支えるという。

垣根 全部本当のことです。

――最初の場面で、まだ幼い兄弟が海辺で流木の木端を波間に放って右にいくか左にいくか当てるゲームをしますよね。尊氏は高い確率で当てる。あれ、感覚的にビッグデータを分析できる能力があるのか? と思いました。

垣根 あの場面はフィクションです。結局、尊氏のすごさって、何も考えないすごさなんですね。何も考えていないということは、常にバイアスがかかっていないので、見たままを全部自然に処理できる。あえて解説するとそういうことだと思います。

 

尊氏は「理解不能な男」

――何も考えていない尊氏とは対照的に、弟の直義や師直は生真面目に物事を考えている。尊氏本人でなく、直義や師直の視点から書くと決めていたわけですね。

垣根 尊氏を書くならそれしかないと思いました。なぜかというと、尊氏の内面を書こうとすると変なアプローチの仕方になるんです。それだとエンタメとして成立しない。だって、ちょっと指先を怪我して「痛い」と言う時は本当に「痛い」としか思っていないんです。「痛いな。明日の朝にはこの傷治ってるかな」みたいなことを延々と書くのはエンタメとしてはちょっときつい。

 それよりも、理解不能な男を、身近にいる常識的な人間が見て「このバカタレ」と怒ったり感動したりするという、オーソドックスなスタイルを取ったほうが、確実に尊氏の人間性を炙り出せる。

 弟の直義は本当に真面目だったと思います。だって尊氏が何もしてないのに、室町幕府ができているんですよ。尊氏は弟の危機が来た時だけ毅然として立ち上がるんですが、それがたまたま歴史を変える局面というだけだった。あの人は常にそうなんです。

――最初は弟が兄を慕って支えている印象でしたが、だんだん、兄も弟のことがめっちゃ好きじゃん、と思えてきますよね。

2023.08.01(火)
文=瀧井朝世