『急がば転ぶ日々』(土屋 賢二)
『急がば転ぶ日々』(土屋 賢二)

 関西の、とある老人ホームの一室である。

「先生のご本の解説を書かせていただきます、荻野です」

 老紳士は柔和な笑顔を崩さずに言った。

「汚くしていますが」

「いえいえ、いい感じです。殊に机の上。おもちゃ箱をひっくり返したようです」

「おもちゃ箱ってそれ誉めてませんよ」

「ああ、これがエッセイに出てくるペン立てですね」

 二十本ほどの筆記用具が「ギチギチに」入っている。これに新たなボールペンを「無理やり押し込むと、一本だけ飛び出てしまう」。わが家もまさにそれで、一本だけ飛び出たペンが手に取りやすいので、他を差し置いてその一本ばかり使っている。ところが先生は「きれい好き」なので、ペンが一本飛び出た状態は「耐えられない」。新たなペンの置き場所を巡って懊悩する有り様が一篇になっている。

 机周りにモノが氾濫している描写は見事である。私が殊に身につまされたのは、以下の箇所だ。

〈さらに、送られてきた年金や保険料の支払いなどの書類がある。何をどうすればいいのか理解できないまま、「時間が解決する。もしくはわたしまたは関係者の死が解決する」ことに望みを託して放置してある。〉(「ボールペン一本分のスペース」)

 普通なら書類を放置、で済ませてしまうところだが、「時間が解決する。もしくはわたしまたは関係者の死が解決する」というツチヤ節が事態のもたらすリアルな気分を活写している。巧いだけの文章ならば真似すればよい。しかしツチヤ節は小説系の文体ではなく、背後に哲学があるから、他の人がやれば二番煎じになってしまう。

「わたしが哲学者だからと、買い被っているだけではありませんか」

「命題を解決するために関係者の死まで視野に入れて論じている。そういうフリをすることで、努力して自分で書類に記入する、あるいは人に聞く、という当たり前の解決策が読者に見えなくなります」

「詭弁だとおっしゃりたいわけですね」

「詭弁、上等。今の日本の文壇やジャーナリズムに一番不足しているのが、楽しい詭弁だと思うんです。こう見えてわたくし、弁論術は少々齧(かじ)っておりまして」

2024.04.16(火)
文=荻野 アンナ(作家)