鈴芽は、幼い頃の自分自身と出会う

 鈴芽は自分が被災した東北へと向かう。幼い自分が通り抜けた後ろ戸を探し出し、常世に赴くことで、要石の草太を救おうというのだ。かつての自宅跡の近くで、後ろ戸を見つけた鈴芽は、その向こうへとついに足を踏み入れる。

 その時、鈴芽の眼下に広がる常世は、あちこちで火災が起きていて、まるで東日本大震災の火災の風景のようだ。さらに大地は厚く泥に覆われ、被災した家屋が打ち捨てられている。幼い時に鈴芽が見た風景がそのまま残っているのは、(設定的にはともかく)常世が鈴芽の「凍った時間」そのものをあらわしているからにほかならない。

 鈴芽は常世で草太を救い出し、2人は協力してすべてを収まるべきところへと収める。暴れていたミミズは常世の大地に倒れ込み、大地は草花の生い茂る穏やかな景観へと生まれ変わる。

 鈴芽は、そこで遠くに幼い少女がいることに気づく。それは幼い日、母を探して常世に迷い込んだ自分自身だった。近くの草むらに、3本脚の椅子を見つける鈴芽(絵コンテには、「震災後海に流され常世に流れ着いた椅子」と説明されている)。鈴芽は、それを幼い鈴芽にわたす。

 

幼い鈴芽に椅子を手渡すと…

 常世は鈴芽にとって「凍った時間」の場所だった。しかし鈴芽が幼い鈴芽に椅子を手渡した瞬間、「凍った時間」は解け、「循環する時間」が始まる。ここで観客も「すべての時間が存在する場所」が「静止している場所」だけではないことに気付かされる。常世には、循環という運動の形ですべての時間が流れているのである。こうして常世のイメージが、鈴芽自らの行動によって「静止」から「運動」へと上書きされて映画は幕となる。

 もちろん映画のラストシーンの後、幼い鈴芽が「凍った時間」を胸に抱えながら過ごしたことを観客は知っている。でも、その12年の時間を現在の鈴芽は、ないことにはしなかった。“あの日”の記憶もまた、今の自分の一部であることは間違いないのだ。だからこそ鈴芽は、「凍った時間」の象徴ともいえる3本脚の椅子を、エールの言葉とともに手渡すのだ。

2024.04.22(月)
文=藤津亮太