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「声をあげた女性」の身には何が起きるのか?

 ふたつの映画に共通するのは、主人公と組織との熾烈な闘いとその結果を見せるよりも、声をあげた女性の身に何が起きるのか、身近な視線からていねいに描いた点にある。

 組合運動によってカレンのそれまでの生活が壊れてしまうように、モーリーンと身近な人々の関係も、事件によって微妙な変化を迎えていく。モーリーンの夫や友人にも、やはり彼女を疑いの目で見たり、よそよそしい態度になる瞬間がある。一方で、モーリーンが一番辛いときに背中を推してくれたのが、もともと彼女と折り合いが悪かった実の娘だったことには、救われる思いがした。娘は、母が原子力発電会社で働いていることに批判的で、その独善的な性格を嫌っているけれど、だからといって母の正義の声がつぶされるのは許せない。思想や信念が違っても、相手を助けることはできるのだ。

 『私はモーリーン・カーニー』が映画化されるきっかけとなったのは、ジャーナリストのカロリーヌ・ミシェル=アギーレが、モーリーンの無罪を信じ、独自の調査でルポルタージュを書いたのがきっかけだったという。彼女の本に心を打たれた監督はすぐに映画化を決意。もしこの女性記者がいなければ、モーリーン・カーニー事件は、社会の中に埋もれたままだったかもしれない。

激しい身分差別を受けているからこそ真実のために立ち上がる女性記者たち

 現在公開中の映画『燃えあがる女性記者たち』(リントゥ・トーマス、スシュミト・ゴーシュ監督)を見ると、社会正義のために立ち上がる記者の存在がいかに大事か、痛感させられる。

 この映画は、インドに根強く残るカースト制度で最下層とされ、不当な差別を受ける「ダリト」の女性たちが立ち上げた新聞「カバル・ラハリヤ」の功績を追ったドキュメンタリー。紙媒体からYouTubeまで幅広い活動を見せる「カバル・ラハリヤ」の記者たちは、みなスマートフォンを片手に各地を飛び回る。

 さまざまな取材をするなかで、記者の一人は、村である女性が受けた凄惨なレイプ事件の調査を始める。被害者とその家族は震える声で被害を訴え、警察はろくな捜査もせず、メディアはどこも取り上げてくれないと語る。社会のなかで一度はかき消されそうになったその声を、「カバル・ラハリヤ」の記者はたしかに受け止め、事件を追及する。それができたのは、「カバル・ラハリヤ」の記者たちもまた、日頃、激しい身分差別を受け、女性だからと口を封じられてきたからだ。虐げられた者の気持ちを身をもって体験しているからこそ、大手の新聞社やテレビが相手にしないような小さな事件にも目を凝らし、独自の視点で記事を発信できるのだ。

 『私はモーリーン・カーニー』の劇中にも、記者ではないが、モーリン・カーニーを信じて立ち上がる一人の若い女性が登場する。バッシングに遭い、精神的に追い詰められたモーリーンが再び闘うことを決意できたのは、自分の声を聞いてくれる人がいる、と信じられたからかもしれない。

 正義のため、自分より巨大な相手に声をあげた人々の人生は、必ず深い傷を負う。だからこそ私たちは、彼女たちの勇気に最大限の敬意を払わなければいけない。そして被害者への疑念がどれほど恐ろしい結果をもたらすのか、肝に銘じるべきだ。声をあげた人々に対し、自分たちは何をするべきなのか、どのように声を聞くべきなのか、これらの映画を通して考えてみたい。

『私はモーリーン・カーニー 正義を殺すのは誰?』

http://mk.onlyhearts.co.jp/

『燃えあがる女性記者たち』

https://writingwithfire.jp/

次の話を読む多様性の時代にこそ見失う「どう生きるか?」の答えは、他人との“共同生活”にヒントがあるかも

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Column

映画を見る、聞く、考える

映画ライターの月永理絵さんが、毎回ひとつのテーマを決めて新旧の映画をピックアップ。さまざまな作品を通して、わたしたちが生きる「いま」を見つめます。

2023.10.24(火)
文=月永理絵