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“被害者らしくない”女性だったモーリーンに向けられた疑いの目

 事件を調べる捜査当局は、モーリーンの証言や態度に曖昧なところがあると疑い始め、事件は彼女の「自作自演」だと結論づけたのだ。当初は断固として無罪を主張していたモーリーンだが、厳しい取り調べに疲れ果て、「事件は私の自作自演だった」と認めてしまう。その後すぐに自白を撤回するも、裁判の結果、捜査を混乱させた罪でモーリーンに有罪判決が下される。

 いったいなぜこんな事態が起きたのか。政府が絡んだ陰謀などさまざまな推測ができるが、一番の理由は、モーリーン・カーニーが“被害者らしくない”女性だったからだろう。レイプ被害を受けたというのに、泣き喚くでもなく、普段通りの生活を送る彼女に、周囲の男性たちは戸惑い、疑いの目を向けたのだ。こうして彼女は、世間から詰られ、笑いものにされる。

 モーリーンの体験は、被害者側に落ち度を見出そうとする「被害者バッシング」の構造とよく似ている。本物の被害者なら笑顔を見せられるはずがない。被害者が派手な服装や化粧をするなんてありえない。被害者である彼女に、次々と根拠のない中傷が浴びせられる様は、ただただ恐ろしい。

 でももっと恐ろしいのは、それを見ている私たちの心の中にも、彼女への疑念が宿ってしまうことだ。医師の診察後、平然とした顔で唇に赤いリップを塗る彼女を見たとき。自宅を警備しに来た捜査員たちと笑いながらポーカーをする彼女を見たとき。一瞬、「彼女は本当に被害を受けたのだろか?」と思った自分に気づき、ゾッとする。

 知らぬ間に正しい被害者像を求めてしまうこと。その像にあてはまらない相手に不満を抱いてしまうこと。この映画は、被害者への誹謗中傷がどのように生まれていくのかを端的に示してみせる。そして、観客にこう問いかける。モーリーン・カーニーの身に起きたことは、本当に自分には無縁だと言えるのか?

 モーリーンに降りかかる非難や中傷の裏には、家父長的な社会のあり方も影響しているはずだ。構造的な差別のなかで、少数派の女性が自らの主張を通すには、男性に嫌われないよう振る舞うことが求められがちだ。男性の経営陣が幅を利かせる組織のなかで、ニコリともせず辛辣な意見を述べるモーリーンのような「生意気な女性」は、煙たがれ、憎まれる。

 組織のなかで、物おじせず声をあげる女性を描いた映画に、やはり実際の事件をもとにした『シルクウッド』(マイク・ニコルズ監督、1983)がある。『めぐり逢えたら』(1993)をはじめ、ラブコメの女王として知られるノーラ・エフロンが、初めて脚本を手がけた本作の主人公は、核燃料工場で働くカレン・シルクウッド(メリル・ストリープ)。恋人のドルー(カート・ラッセル)と、レズビアンの友人ドリー(シェール)と三人で暮らすカレンは、ある日工場での放射能漏れ事故に遭遇する。会社の核管理の杜撰さと従業員への核汚染の実態を知ったカレンは会社の不正を告発し、労働組合と共に闘い始める。

 だが仲間だったはずの従業員たちは、上層部と揉めるカレンに嫌悪感を示し、恋人や友人たちも、組合運動に入れ込む彼女に戸惑い、離れていく。正義のために声をあげた結果、大事な人たちとの関係が壊れ、心無い批判や中傷に晒されていくのは、モーリーン・カーニーがたどった道のりとよく似ている。

2023.10.24(火)
文=月永理絵