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 アンテプリマのワイヤーバッグと言えば、1998年の販売から2000年代前半にかけて、一世を風靡した最先端トレンドのバッグ。そのワイヤーバッグがブランド設立30年を経て、再度熱いトレンドを形成しています。スマートでファッショナブル、そして今もなおモダンの先端を行くワイヤーバッグが、20~30代の若年層にリバイバルヒット、そしてその親世代である50代の顧客も増やしているそうです。

 今回はそのアンテプリマのクリエイティブ・ディレクターである荻野いづみさんにインタビュー。一筋縄ではいかなかった彼女の人生と、女性実業家として先見の明を持ち、アンテプリマを長年にわたり一流ブランドたらしめてきた人生哲学を聞きました。(全3回の2回目。#1#3を読む


子育ても社交もサポートも、すべてこなした米国時代

――アンテプリマを立ち上げる前の荻野さんについてうかがってまいります。現在のご主人と知り合う前は、外国籍の方と20歳で結婚し大学を中退、一時アメリカで生活されていたそうですね。

 以前の主人は自営業でしたので、私も主人を手伝っていました。アメリカでしか作れない医療機器を扱っていたので、渡米してしばらく生活していたんです。

 日本でいう“専業主婦”とはかなり感覚が異なると思います。妻として、自宅に人を招いて交流することがどれだけ夫の仕事にとって重要か、現地の社長からも手ほどきがありましたから。出世するのもしないのも奥さんがどれだけ貢献できるか、どれだけPR上手かがが大切。そういうことを自然に身に付けていきました。

 当時は若かったですけれど、「これは大変! お料理学校にも行かなくちゃ。お花もやらなくちゃ」と必死に勉強しましたよ(笑)。

――その後帰国し、24歳でご長男を出産されます。パートナーの事業のサポートもしつつ、子育てをするのはご苦労があったのでは?

 はい。彼はとても国際的な人だったので、子どもも早くからインターナショナルスクールに入れました。忙しかったけれど、楽しかったです(笑)。

 とにかく目の前のことを一生懸命やってきただけ。今もその信条は自分の中に生きています。インターナショナルスクールでも、PTA副会長になってみたり、スクールでファッションショーをやってみたりと、あらゆることに挑戦しました。

 当時学んだ語学も活きています。今、英文の書類が打てるのはタイプの学校に通ったからです。お花の学校やメイクアップアーティストのスタイリングの学校にも行きました。あとはジュエリーが好きだったので、宝石を研磨してジュエリーをデザインするスクールにも。これがアンテプリマで靴のフォームを作製するときの職人の方とのやり取りにも役立っているんです。

――目が回るような忙しさですね……。

 お料理学校には3つくらい通っていました(笑)。今思うと、そこには“モノを作る基本”みたいなものがあったんです。要は「何を作るかというイメージ」が大切なんです。

 先生に「料理を作って食べるだけでなく、“接待”すべてが重要なのよ」と教えていただいたことも忘れられません。どんな花を飾って、どういう会話をして。冷蔵庫に何が残っていて、旬の食材は何で、今の時代はヘルシームードなのか、それともこってりムードなのかとか……。

 ファッションも同じですよね。時代性を考え、コンセプトを立案し、マテリアルを選んで、それで何を作ろうかを考えるわけですから。だから今でもシェフの方など、お料理をされている方と仲良くなります。今振り返ると、一生懸命目の前のことをやっていたら、すべて繋がっていったという感覚があります。

――最初のご結婚は荻野さんにとってどんな意味があったと思われますか?

 私の実家は新宿にありましたが、父方が銀座で「帯吉」という帯屋を営んでいました。とても日本的な家でしたが、対照的に結婚相手はクオーター。義父との朝食にはホットケーキが出てきて、義父はガウンを着て葉巻を嗜んでいるんです。真反対の世界に足を踏み入れてしまった! と思いました。

 現在は、若い方に海外への憧れがあまりないと聞きます。けれど、私はとにかく海外へ行きたくてしょうがなかった。義父を羽田へ見送りに行きながら「あんなふうに世界を飛び回りたい!」と思っていたんです。

2024.04.17(水)
文=前田美保
写真=佐藤 亘