「この時間が、どんな薬より心に効く」

 依存症の治療は、私たちの関係性をも変えた。

 Aは酒をやめてから憑き物が落ちたように落ち着き、その代わりに「おしゃべり欲」が爆発したらしく、私たちは気の合う同性の親友みたいに喫茶店や外でいつまでも話をするようになった。

 この間も、鎌倉の浜辺でずいぶん長話をした。

 「今日はどんな感じ?」から始まり、最近感じたこと、治療のこと、不安なこと、子供の頃のことを、双眼鏡でゆっくりと遠くの過去の記憶を覗くみたいに思い出しては、海を眺めながらとりとめもなく話した。

 Aは最近、同じ依存症の人たちとのミーティングで面白い友達ができたらしい。依存症の現場で出会う人は個性的で、普通に生きていたらまず出会わないような壮絶な経験を潜り抜けた人たちばかりだ。話を聞きながら、いい仲間がたくさんできるといいな、と思った。他にはAをいたく気に入っている通院仲間のおじさんがココイチのカレーを奢ってくれたとか、腰痛と尿の出が悪くて困っていたけど豆の煮汁を飲む健康法でかなり改善したとか、少しずつ減薬が成功していること、そんな小さな日常のニュースを話してくれた。「いつか薬を飲まずに生活できるようになりたい」と言うAに、私は今までの嵐のような日々を思い出して胸が熱くなった。

 そんな近況を話しているうち、互いの子供の頃の話になった。

 私たちは家庭環境こそ全く異なるが、子供の頃に感じていた寂しさや所在なさはとても似ていた。Aはその日、親代わりになってくれていた祖父の思い出を話し始めた。

 耳を傾けていると、Aの子供時代の様子が頭の中になだれ込んできて私の脳内のスクリーンに映し出された。まるで脳の回路に、USBを差し込んで共有したみたいだった。Aがどんな子供だったのか、どんな環境で過ごしていたのかをここまではっきり想像できる理由は、これまで私たちが何十回、何百回と互いの話を聞きあったからだろう。

 風景と自分の境界が無くなるくらいだだっ広い空の下でAの話を聞き続けていると、目の前で子供の頃の姿をしたAが飛んだり跳ねたりするのが浮かんできて、まるで半醒半睡の夢を見ているようだった。小さな足で蹴られた砂が本当にこちらへ飛んできた気がして驚いて振り向くと、Aも同様、私には見えていない別の世界を見つめながら自分自身と会話しているように見えた。

 すっかり日が暮れ、「もう帰ろうか」となった頃にはお互いこれ以上何も要らないと思えるくらい心が満たされていた。駅までの帰り道、Aが「この時間が、どんな薬より心に効く」と言っていたのが印象的だった。

 このいつもの長時間談話には、何か特別な力がある気がする。だが、これはきっと誰とでもできることではない。よっぽど心を許して肩の力が抜ける相手でないと、こんな時間は多分過ごせない。

 そのうち、私はなぜあんなに彼らの死を怯えていたかがわかった。

 彼らが酒に頼らなければ怒りも吐き出せない不器用な小心者であることと同様、私もまた、彼ら以外の人に心を許せない臆病な小心者だったのだ。そんな似たもの同士だったから、私は彼らの前でだけは開けっぴろげになれて、他の人の前で必要だった仮面もいらなかった。だからあれほど「いなくならないでほしい」と必死だったのだ。

***

 私は後日、Kの方にもずっと胸につかえていたことを訊ねてみた。

「私、おかしいよね。Aに何かあったらいつもすっ飛んでって、病院へ連れて行ったり話を聞きに行ったりして。やっぱり嫌だよね」

 そしたらKは、何を今更、という顔で「別にいいよ」と言った。すかさず「なんで」と聞くと、「だって、人助けだから」と返ってきた。

「人助け!?」

 とても拍子抜けした。

 私はこれまでも自分で自分がわからなくなることが多々あり、彼らが大切であることは確かなのだが、本当は自分の依存心を満たすために彼らを利用していたんじゃないかとか、私のせいで治療が遅れたんじゃないかとか、そんなやましさと罪悪感がずっと心の中にあった。

 それに、この関係は100人見たら100人が「不自然」と言うと思う。だから自分たちは世間的に間違った存在で、私は間違ったことをしていると思っていた。

 だが「人助け」と言われると、それら全てがただのどうってことない善行に思えて、心がふっと楽になった。頭の中に何の色気もないただのお坊さんの絵が浮かんだ。

 そうか、私がしてたのはただの人助け……。
 そう思ったら、なんだか自分の心の中の一番安心な場所にやっと着地できたような気持ちになった。

 彼らと酒の17年間。今思えば、私たちは凄まじい乱気流のような日々の中にいた。
 だが、嵐を抜けた後の世界には、誰にも理解されなくても良いと思えるくらいの私たちだけの安らぎがあった。

小指(こゆび)

1988年、神奈川出身。漫画家、随筆家。武蔵野美術大学デザイン情報学科を卒業後、音楽を聴き浮かんだ情景を五線譜に描き視覚化する試み「score drawing」の制作を開始。「小林紗織」名義で画家としても活動。
X(旧Twitter)@koyubii

宇宙人の部屋

定価1,650円(税込)
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編集部が注目している書き手による単発エッセイ連載です。

(タイトルイラスト=STOMACHACHE.)

2024.03.06(水)
文=小指