「人間の営みとは、知らず知らず『選択』の連続なんですよ」そう語るのは、作家の五木寛之さんです。日々の暮しを振り返っても、朝食に何を食べるか、いつ食べるか、そもそも食べるのか、抜くのか。こうした日常を積み重ねた人生は、まさに選択の集大成に他なりません。

 では、悔いなき選択には、何が必要なのでしょうか。五木さんの『選ぶ力』(文藝春秋)には、選ぶ力を身につけるための珠玉の実践的ヒントが書かれています。同書より一部抜粋して、五木さんの考える運命について紹介します。(全2回の1回目/後編を読む

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自分の運命は選べるか

 昔ほどではないが、それでも毎年、甲子園で開催される高校野球の人気は大したものだ。

 春のセンバツ大会、夏の全国選手権大会、どちらも毎年熱い話題を集めてきた。スポーツにうとい私も、テレビでの観戦はかかさない。

 忘れることのできない試合がいくつもある。後で思い出して、胸が熱くなるような名勝負も数々ある。

 時としてマスコミの美辞麗句をつらねた持ちあげかたに、鼻白むこともないではない。しかし、祭りの裏側をのぞいて、したり顔の意見をのべるのも味気ない仕業ではある。そんなことよりも、いつも心にかかることが一つある。

 それは、甲子園をめざして野球に打ちこむ高校生たちが、全国で一体どれくらいの数いるのだろうということだ。

 私も中学生時代、人なみに少年野球に夢中になった時期があった。

 戦後しばらくたった1940年代の後半の話だ。当時はなんでもアメリカがお手本の時代だった。そのころ来日したフラナガン神父という有名人が、こんなことを言って話題になった。

「野球をやる少年に不良はいない」

 マスコミでも、ずいぶんもてはやされた言葉である。しかし、現実はその逆だった。私たちのチームだけでなく、ほとんどの少年野球のリーダーは、おおむね不良少年だったのだ。投手で4番バッターは、そのボスの特権である。

 当時、プロ野球の最高のスターは、赤バットの川上哲治、青バットの大下弘だった。そんなヒーローに憧れながらも、私は村の少年野球チームに入れてもらえただけで満足していた。中学や高校の野球部というのは、雲の上のエリートの世界だと感じていたからである。

2021.12.31(金)
文=五木寛之