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 千早茜さんの新刊は、傷や傷跡をモチーフにした短編集です。表題にもなっている「グリフィスの傷」という言葉を知ったことが、創作の大きなきっかけに。グリフィスの傷とは一体どのようなものなのか。

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「小さな頃から傷跡に強い好奇心を持っていた」

「グリフィスの傷というのを知ったのは、10年くらい前。『透明な夜の香り』でカバーの作品を制作してくださったガラス作家の松本裕子さんに教えてもらいました。滑らかに見えるガラスの表面には、目に見えない微細な傷がたくさんついているそうなんです。理論上はガラスにはもっと強度があるはずなのに、無数にあるその傷のせいで、ちょっとした力で儚く割れてしまう。それがグリフィスの傷です。理系の人やガラス工芸の世界ではよく知られていることらしくて、でも私は初めて知って妙に惹かれたんですよね。いつかこれをタイトルにするんだ、と思って、メモにも残していました」

 響きの美しい言葉と、傷へのフェティッシュな感情が掛け合わさると、こんなふうに世界が広がるものなのか。各短編で描かれている世界の繊細さにため息が出る。

「私という人間は、小さいころから傷に対して執着というか好奇心というか、すごく貪欲さがありました。かさぶたや蚊に刺された跡、膨れてどす黒くなった血豆……、そういうのが出来ると中がどうなってるか、気になってしょうがなかったんです。うおのめをカッターで開けてしまって、父にめっちゃ怒られました。開けたときに血が止まらなくなって、『お父さーん、血が止まらないー』と廊下に血の跡を点々とつけながら半べそで走っていくみたいなことをしていましたね。打ち身の色の変化や、切り傷から血ではないものがしみでてくるのも観察して楽しんでいました。本当は、いろんな人に『どこかに傷跡残ってる?』『その傷どうしたの?』と聞いて回りたいくらいなので、今回は、取材という名目でこれ幸いと、傷を見つけたら即、聞いたりして。みんな案外、どんなふうに負傷したかも忘れていないし、ケガや手術の状況も結構細かく記憶しているんだなあと、興味深かったです。もちろん、若干、罪悪感はあるんですよ。SNSでスイーツが好きとは書けるけれど、傷が好きとかは言いにくい(笑)」

 読んでいて圧倒されるのは、傷や傷跡が、ストーリーに有機的に結びついているからだ。たとえば、「林檎のしるし」では、ヒロインは、ふとしたきっかけから同じ会社の既婚者男性と飲み歩くようになる。心の距離が近づいていくその矢先、男性は酔っ払って寝ている間に妻が用意した湯たんぽで低温熱傷に。それを機に、関係は変わり始め……。

「火傷というほど熱した恋心でもない。けれどぐずぐずしたダメージはあって、低温火傷みたいだなと思ったんですね。そんなふうに、連想ゲームのようにストーリーを練っていきました。どんな傷を取り上げるかは、医学書に首ったけで考えていきました。比較的軽い切創から始めて、だんだん複雑な症例を取り上げて……。わりと医学書の流れのままです。趣味と実益が重なったテーマなので、医学書を眺めていたら『こういう作品、永遠に書けるな』と思いましたね。唯一、書ける自信がなかったのは、美容形成の話です。取材にも行って、先生のお話はとても面白かったのですが、掘り下げていくと、私自身があまり肯定的な感情を持っていないなと気づいたんですね。でも、世の中には必要な人もいます。無理して肯定的に書くのも否定的に書くのも違うし……と迷った末に浮かんだのが、『あおたん』。入れ墨のおっちゃんの話ですね。そこから外見を変えることについて入り込めました。」

2024.05.10(金)
文=三浦天紗子
撮影=平松市聖