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知らないことを知ることの楽しさが仕事のモチベーションになる

――林さんは、なぜテレビ業界を志望されたんですか?

 実は就職せず、大学院に進んで勉強を続けたいと思っていたんですよ。けれど事情があって断念し、あわてて就職活動をすることになったのが大学4年の春を過ぎていた頃。当時は、4月になったら就活解禁、はい内定、みたいな時代だったので、もう受けられる企業なんてどこもなくて、残っているのはマスコミだけでした。

小川 当時マスコミは他業種より遅かったんですね。

 とはいえ、自分は文章なんて書けると思っていなかったので出版と新聞は選択肢としてない、じゃあテレビ局を受けようかなと(笑)。動機としてはあんまり強いものではないんです。結果として、NHKに入ったということですね。正直に言うと、小川さんが今キャスターをしていらっしゃるTBSさんも本当に好きな局でした。ただ、NHKに大好きな番組がいくつかあって、テレビの世界に入るならこういう番組が作りたいと、ディレクター志望でNHKを受けました。

小川 それはやっぱり報道系の番組ですか?

 全然。報道なんて、当時は私の頭に一切なかった(笑)。当時、海外の国を取材して紹介するシリーズ番組があって、その中に『素顔のサウジアラビア』という番組があったんですけど、サウジアラビアなんて行ったこともないでしょう? あまりにも素敵な番組で、元々すごく海外に関心があったから、「こういう番組が作りたい!」って。

 その頃は衛星放送にも少しずつ注目が集まり始めていた頃だったので、自分が大好きな海外のオペラや演劇の舞台を衛星中継する番組を制作したいという希望もありましたね。ところが、実際には記者として採用になって、気が付いたら夜討ち朝駆けで取材に駆け回っていました(笑)。

小川 じゃあ、林さんにとっては思い描いていた仕事とは全く違っていたんですね。でも、そこにやりがいを見出されて。

 そうです。すごく面白いじゃないですか、知らないことを知るって。あれっ、私ばっかり喋っちゃっていいんですか!?

小川 もちろんです! 今日はお話を伺うのを楽しみにしてきましたので。

 そんな、ありがとうございます(笑)。それで、記者として入局したので、最初は警察取材、いわゆるサツ回りですよね。とにかくサツ回り自体が初めてだし、そこで知る社会や人々の生活も、取材する対象ごとに違うわけです。それがすごく、私の好奇心やモチベーションを掻き立てたというか。その後は行政や司法なども担当しましたが、20代の人間にとってはすべてがすごく刺激的で楽しかったですね。

小川 よく分かります。私の場合はテレビ朝日に入社して最初に就いたレギュラー番組が、『サンデープロジェクト』だったんです。まず到底新人アナウンサーが配属されるような番組ではないと思っていたので、もう本当に頭が真っ白になりました(笑)。

 でも、そこで田原総一朗さんと出会って、日々交わされる会話を必死に聞いたり、資料となる本や新聞を必死に読んだりを繰り返していく経験の中で、報道に身を置く楽しさを知っていったのかなと思います。もちろん、皆さんについていくだけで精一杯でしたが。

 小川さんは、なぜマスコミを志望されたんですか?

小川 私の場合、すごく漠然としたところから始まっていまして。小学生の頃、6〜7歳の時にアメリカに住んでいたのですが、全く知らない国にボンッと飛び込んだことが、とても大きな経験になったんですね。クラスにもいろんな国の子がいたので、彼らの国について話を聞いたり、逆に自分の国のことを話したりという機会がたくさんあって。

 その時、「あ、知らないことってこんなにたくさんあるんだ、知ることってこんなに楽しいんだ」とか、逆に「自分の価値観や文化について伝えて、みんなが反応してくれるって、こんなに楽しいんだ」って、純粋に感じたんです。

 あぁ、なるほど。

小川 当時の校長先生もすごく日本の文化を褒めてくださって、「素敵な伝統衣装のある国だよね」「所作が美しいよね」と。そういった言葉一つひとつに、あ、そうなんだ、当たり前に住んでいた日本にも美しさってこんなにたくさんあるんだって気付かされたんです。

 それが原体験となって、日々の出来事や世界の様子といった自分の知らないことを知って、それを人に伝えるという仕事に就きたいなって、純粋に憧れを持つようになったんです。小学校の卒業文集に既に「ニュースを読むアナウンサーになりたい」って書いていました。

――憧れを目標に育てていったという感じですね。

小川 そうですね、すくすくと(笑)。

2022.10.07(金)
文=張替裕子
写真=杉山秀樹