熊本の野菜には
よけいな手を加えるのが申し訳ない
とことん美しい。と同時に、どうにも奇妙な本が出た。『野菜』という。
書籍名としては、かなり異例だ。野菜。こんなありふれた、大きいくくりの単語ひとつをタイトルにするとは。これでは書店に並べようと思っても、どこに置けばいいのか書店員は迷ってしまう。もうすこし詳しく内容を想像させるものでないと、読者を想定するのもむずかしい。
案の定、刊行元の出版社の営業担当からは、企画段階で再考を促す意見が降ってきた。
――このままでは「レシピ・料理」のコーナーに置いてもらえない。タイトル、変えていただけませんか。
と。そう、『野菜』はレシピの載るれっきとした料理本である。
著者の細川亜衣さんは、熊本を拠点に活動する料理家。タイトル変更の提案に対して、首を縦に振らなかった。
彼女の思いの丈は、本の冒頭に掲げられた「宣言」のような文章に集約されている。
私のからだの大部分は野菜でできている。
だから“野菜”の本を作ろうと思ったのは、ごく自然なことである。
今日も明日もあさっても、私は野菜に埋もれて生きてゆきたい。
というものだ。本書で紹介されている料理は「ゆでアスパラガス」「にら豆腐」など、「料理と呼ぶのもどうかというものも、けっこう多く載っている」(細川さん)ので、たとえば「野菜料理大全」といったタイトルよりも、もっとシンプルなほうがしっくりくるという面もある。
「私がおいしいと思うのは、たいていそういう料理です。あめつち・太陽の力で育ち、作り手が手助けすることで野菜は実る。料理する側はあれこれ手をかけるより、できるだけそのまま受け止めればいいんじゃないか。とくに、私がふだん接している熊本の食材は本当にいいものなので、何かよけいに手を加えてしまうとかえって申し訳ない気分になる。それでだんだん、できるかぎり何もしない料理になっていった。その結果ですね、こういうタイトルになったのは」
料理を“その人のもの”にするためには
一風変わっているのは、本の中身も同じ。「ういきょうとかさごのレッソ」「焼きパプリカと干し果実のマリネ」「高菜のしゃぶしゃぶ」……。50種もの野菜を取り上げ、レシピと料理のコツを記してあるのだけれど、記述のしかたは、ほかの料理本とずいぶん異なる。
順を追って料理のつくり方が記してあるとはいえ、必ずしも材料の分量が細かく指定されているわけではない。かといって、小説の一節のようにやたら詩的な表現が続くのでもない。
素材を前にして、それをおいしくするために考えを尽くす。そのときの思考の働きが、忠実に再現されているとでも言おうか。
例を挙げると、「セロリとラルドの温かいサラダ」では、セロリの切り方として、
できるだけ芯に近い繊維のやわらかそうなところを歯ごたえのよい厚みに切る。
と書かれる。歯ごたえのよい厚みとは曖昧だけれど、言われてみればその通り。何センチと限定されるよりも、いちばん歯ごたえがいいのはこれくらいかなと想像しながら料理したほうが、きっとうまくいきそう。
また「ゆでアスパラガス」の項では、ゆで方として、
自分の目でしっかりと見つめながら、一番おいしいところで引き上げるのが好きだ。
という。ゆで上がっていく野菜をじっくり見つめるのが大切と説くのだ。料理のポイントは、言葉や数値の厳密さにあるのではない。どんな態度や心持ちで素材と向かい、作業を進めるかが肝心だと教えてくれる。
「読んだ人がそれに囚われて、がんじがらめになってしまうレシピの本にはしたくないんですよね。分量などの数字が詳しく載っていたり、次にするべきことがきっちり指定されていたりすると、本に書いてある言葉から抜け出せず、料理が“その人のもの”になっていくのが難しくなってしまいます。この料理どうやって作ったの? と友人に聞かれたとき、ああこれはね、と語ることができるようなレシピ。それが私にとっては最高のものであり、目指したいところです」
料理とはだれか、個別の血の通った人の手によって生み出されるもの。そう改めて知る思いだ。
おいしい料理が生まれる原動力は「欲」
となると、料理も作り手によるひとつの表現だ、そう言えるのではと思い至る。では、細川さんの料理=表現の素はどこにあるだろう。画家にもキャンバスに筆を下ろす「ひと筆目」があるとすれば、料理が生まれるひと筆目とは何なのか。
「欲、ですね。それは食欲だったり、だれかを喜ばせたい欲、食べることで自分が満ち足りた気分になりたい欲、といろいろありますけれど。そうした欲を満たすために食材を手元に用意して、これをどうおいしくいただこうかとあれこれ考えていく。ただ、表現という言い方ならまだいいのですが、私は料理をアートだと思ったことは一度もないんですよ。私の作るものがあくまでも家庭料理だということもあるのでしょうけど、アートとして作られた料理というのはあまり食べたいと思えないです。目的がずれてきてしまうので。料理はおいしく食べるためのものであればよくて、ほかの理由や目的がくっついてくる必要はありませんよね。食べた人が、ああおいしいと感じてくれて、満足な気持ちが湧き上がってくれば、その料理は作った甲斐があったし、目的をじゅうぶんに果たしていると思います」
料理を通して伝えられるものは、確固としてある。その伝える力を十全に発揮するべく作られ、それゆえユニークなかたちになって現れたのが、『野菜』という一冊の本だったのだ。
細川亜衣(ほそかわ・あい)
1972年生まれ。大学卒業後にイタリアに渡り、帰国後、東京で料理教室を主宰する傍ら料理家として各メディアで活動。2009年より熊本在住、国内外で料理教室や料理会を行っている。著書に『イタリア料理の本』(米沢亜衣 名義)『愛しの皿』『食記帖』『スープ』など。
2017.05.31(水)
文=山内宏泰
写真=在本彌生