ごく弱火で蒸し煮にして、肉の色がそろそろ変わるかどうかまで、牛肉にほぼ火が通るまで、じっと待つのです。八分通り肉に火が入れば、なべを煽って、肉の旨みの脂を全体に絡めます。肉に柔らかく火を通し、たまねぎの甘みを生かし、二つの食材を一つにまとめ際立てる調理法には、おいしくなる要素がいくつもあるのです。

 見事なバンザイ、いやグリコの出来上がりです。この料理、火を入れる間は何もすることがないので、いつも忙しい調理場にはうってつけ。手を離せるのがいいんですね。思えば海軍式の蒸し煮のやり方に似ていて、ご主人は陸軍にいたということでしたが、その時代には日常に役立つ調理法だったのでしょう。

 

 他にもバンザイとして、油揚げや肉と大根をひと鍋で煮込んだ煮物をよく作りました。その鍋にご主人が野菜のヘタやらなんでもかんでも入れてしまうから、きれいに仕上げたいと思っている私は料理が汚される気がして、これはほんとに嫌でした。

 賄いは、基本一汁一菜ですが、時間がある時には、薄焼き卵で春巻きを作るようなこともありました。みんなが喜ぶだろうとカレー粉を買ってきて本格的なカレーを作った事もあるのですが、食べている最中にご主人が戻ってこられて、「日本料理屋でカレーのにおいがするとはなんちゅうこっちゃ!」ときつく怒られました。よほどいい匂いがしたのです。一度にたくさん作りましたから、なくなるまでまる2日間、カレーが視界に入るたびに怒られていました。怒られてあたりまえやと思います。

 うどんの出汁をきっちり引いてきつねうどんを作った時も、お店に戻られた瞬間に「うちはうどん屋か?」とまた怒られた。匂いにも、臭いにも、実に敏感な人でした。

「なんで私が家庭料理やねん」料理研究家・土井善晴が「おいしそうに見えない」と言われて気づいた“場違いな思い込み” へ続く

2022.05.29(日)
文=土井 善晴