終生自らを「陶工」と称した濱田の「好み」

緑釉黒流描鉢 1956年 益子

 音楽業界で「ハマショー」といったら浜田省吾、美術業界なら濱田庄司である(違う)。柳宗悦らと共に「民藝運動」を主導したことで知られる陶芸家、濱田庄司の生誕120年である今年、その「手(創作)」と「眼(蒐集)」の両面から、濱田が追求した価値の在処を紹介する展覧会が、日本民藝館で開催される。

 以前、思わず噴き出す!「お芸術」なんかぶっ飛ばせ、の超絶技巧工芸の回で紹介した明治時代の「超絶技巧工芸」は、仕官先を失った旧藩お抱えの職工たちが輸出産品として腕を奮ったもの。重工業が未だ発展していなかった日本にとって、重要な外貨獲得商品であり、ヨーロッパをジャポネズリが席巻していた時代には商業的な成功を収めることもできた。だが好評は長く続かず、明治後期になると、輸出用の超絶技巧工芸は姿を消していく。

 続く大正時代初期、第一次世界大戦(1914~1918年)がもたらした好況によって、日本の産業は順調に発展。近代化は国民全体へ浸透し、「食べていくだけで精一杯」ではなくなった。暮らしにいささかのゆとりを得た人々の関心は、官民一体となって推し進められた「生活改善運動」、大正12(1923)年の関東大震災という不幸な偶然も重なって、新しい住宅や住まい方――生活へと向かう。

 こうした状況の中で、一般庶民が日常を暮らす生活空間に「工芸」はどのように対応すべきなのか、という問いへの答えとして、大正15(1926)年、柳宗悦、濱田庄司、河井寛次郎らが「日本民藝美術館設立趣意書」を発刊。名もない工人の手仕事から生まれた日用品の中に「用の美」を見出そうという民衆工藝、いわゆる「民藝」運動が産声をあげる。

左:塩釉押文花瓶 1955年 益子
右:赤絵角瓶 1938年 益子
写真はいずれも益子時代の作品。釉の流し掛けを「できるだけ意識を抑えて一気に手許まで描き流す」と書き、「体で鍛えた業に無意識の影がさしている」状態を理想とした濱田だが、若い日には1万種もの釉薬の焼成を試している。

 一方、1920年代~1950年代にかけて、建築の領域をインターナショナル・スタイル(装飾を排除した、合理主義的かつ機能主義的な建築で、個人や地域の特殊性を超え、世界的に共通する様式の創造を目指した。鉄筋コンクリートによる箱形の建物や、ガラスのカーテンウォールなどに特徴的)が席巻。濱田が語る「正しい美」、即ち無名の工人による「陶器とか織物とか家具とかいふ種類の差を思ふより、先ず、どれにも一貫した魂」、その一貫した「好み」に基づく「正しい美」は国境すら越えることができるという主張は、一見土臭い、ローカルな装いを取りながら、実は同時代の芸術運動と共鳴し合っていた。

 激動する時代と芸術思潮の中で確立された作風、またその創作の糧となった蒐集品などから、終生自らを「陶工」と称した濱田の「好み」を見渡したい。

『生誕120年記念濱田庄司展』
会場 日本民藝館
会期 2014年6月17日(火)~8月31日(日)
料金 一般1,100円(税込)ほか 
電話番号 03-3467-4527
URL http://www.mingeikan.or.jp/

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2014.07.12(土)
文=橋本麻里