蒼い海と美しいビーチあり、南蛮文化に影響された独特のカルチャーあり、キリシタンの歴史が育んだロマンティックな風景あり。さらに、山海のグルメに恵まれ、ラグジュアリーなホテルから庶民派の温泉まで揃う天草は、旅好きには魅力満載の島。長崎の教会群とともにユネスコ世界遺産への登録を目指す天草の魅力を7回に渡ってお伝えします。

» 第1回 人なつっこいイルカに会える確率98% キュートなイルカ飛行機に乗って天草へ!
» 第2回 17世紀、天草の宣教師も食べていた? オリーブと天然塩作りの理想郷
» 第3回 陶磁器のふるさと”天草の個性的窯元と平成に甦った天草更紗を訪ねて
» 第4回 東シナ海に沈む太陽が感動的 天草夕陽八景と絶景温泉ベスト5
» 第6回 海からの風に南蛮文化の香り漂う天草らしさを満喫できる個性派ホテル
» 第7回 食べておきたい天草グルメとお土産にしたいスイーツ

キリスト教の伝来から、繁栄、潜伏キリシタン史まで

キリシタン弾圧の歴史を経て、昭和初期、ヨーロッパから天草へ赴任した神父らの力で建てられた大江天主堂は現在、天草のシンボルにもなっている。

 南蛮文化、祈りの島、隠れキリシタン、天草四郎の神童伝説……。天草と言えば、繰り返し耳にする、そんなキーワード。ピンポイントで聞くと、ややミステリアスにさえ聞こえてしまう天草の歴史も、時代の流れを知っておくと、旅はもっと豊かになる。

 そこで、天草の歴史をざっとおさらい。天草にキリスト教が伝来したのは、1566年のこと。ポルトガル人宣教師、ルイス・デ・アルメイダの布教活動により、島民の7割が洗礼を受けたといわれている。コレジオ(大神学校)が開設され高度教育が行なわれたり、天正遣欧少年使節がポルトガルから持ち帰った活版印刷機で印刷した本が1500部のベストセラーになる(当時、世界の平均は300~500部)など、南蛮文化は大フィーバー。

天草の人々の信仰を集める向陽山明徳寺はキリシタン改宗目的で1645年に建てられた。山門へと至る石段には、十字架の紋様が彫られている。これはいわゆる「踏み絵」。人々はこの十字架を踏まなければ、山門へは進めなかった。

 ところが、江戸時代になると、冬の時代を迎えてしまう。1637年、徹底したキリシタン禁教政策、大凶作と飢饉、年貢の過酷な取り立てなどが重なり、反発した島民による天草・島原の乱が勃発。天草の人口も半減するほど壮絶な乱の後、天草では、近隣からの移民導入や、キリシタンの根絶と、荒れ果てた人々の心を安定させるための大規模な仏教帰依政策が行なわれた。

左:山間にひっそりとある「ぺーが墓」は、神父の墓。「ノミ1本あれば作れるような簡素な墓碑は、墓職人ではない信者が作った証拠。お墓でさえ、ひっそりと作るしかなかったんです」と、南蛮文化に詳しい天草キリシタン館の亀子研二館長。右:山の中の観音堂にある小さなマリア観音。抱いている子供が着ているのは実は神父服という説も。

 大改宗政策が行なわれた後も、一部の信者は信仰の火を灯し続けた。それが、いわゆる「潜伏キリシタン」「隠れキリシタン」と呼ばれる人たちだ。明治時代に禁教令が解除されるまで260年もの間、密かに信仰を続けていた。潜伏キリシタンたちの祈りの証は、島のそこかしこに刻まれている。それは、山の中にひっそりと祀られたマリア観音(潜伏キリシタンは、観音様をマリア様に見立てていたという説あり)だったり、密かにポルトガル語の別名がつけられたお地蔵様だったり。

のどかな里山の風景。かつて潜伏キリシタンが多く暮らしていたというが、その語り部はもう少ない。

 江戸時代に建てられたある民家には、屋根裏に隠された祈りの部屋も残っている。そのすぐ裏の山には、ひっそりと、儀式の際に聖水を汲んでいた沢もある。潜伏キリシタンたちは、表向きは仏教徒としてふるまいながらも、密かにオラショ(ポルトガル語で「祈り」の意味が転じて、「祈るときの唱え言葉」として使われていた)を唱えながら、信仰を続けていた。特別に史跡ではない暮らしの中に、キリシタンたちの悲哀が刻まれているのが、天草なのだ。

<次のページ>信仰の暮らしが息づくノスタルジックな漁村を歩く

2014.06.30(月)
文=芹澤和美