殉教者の法悦=エクスタシーとは何か?

「聖テレジアの法悦」ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作 ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会所蔵(1645-52年)

 さて、ここで、誰でもが持つ疑問……なぜ、聖セバスチャンは何本もの矢に貫かれながらもうっとりとした表情で天を見上げているのだろうか? いわゆる宗教的体験における神秘的な心境、「法悦=エクスタシー」という概念を用いて説明を試みてみたいと思う。

 宗教的な法悦の典型例としては、呪術的なシャーマンが神や祖先の霊と交信するため、魂が肉体から離れ、トランス状態に陥ることがよく知られている。一方、キリスト教では、ローマのサンタ・マリア・デッラ・ヴィットーリア教会コルナロ礼拝堂にあるベルニーニの有名な彫刻作品『聖テレジアの法悦』のモデルとなったアビラの聖テレサ(1515年~1582年)の神秘体験が宗教的法悦の例としてよく引き合いに出され、「いったいソレは何だ?」ということで、心理学や精神医療を研究する人々の間で長年の議論となっている。

 聖テレジアの神秘思想では、第一段階の「瞑想」(heart's devotion)、第二段階の「静寂」(devotion of peace)、第三段階の「合一」(devotion of union)から第四段階の「恍惚あるいは歓喜」(devotion of ecstasy or rapture)へと魂の高揚を経験するとされるが、この第三〜第四ステージが、崇高な魂の働き、神の愛への歓喜であるとされている。

 この神秘体験は、信心深い者にのみに訪れる「高貴な魂の喜び」とされるため、キリスト教に殉じ、進んで自らの残酷な死を受け入れる聖者の表情として、セバスチャンを含め、バロック絵画の殉教聖人は、この「魂の法悦」の表情を使って描かれていることが多い。

 とはいえ、ベルニーニの彫刻を例に取るまでもなく、描く側の芸術家は普通の人間なので、いったいどのように表現したら良いのかが、たぶん、よくわからなかったのだろう。見る方も普通の人間だから、誰にでもわかる表現にしないとならない。芸術家たちはいろいろな解釈を試みたものの、「魂の恍惚」を描くのに、現在の一般的な解釈を俗っぽくいうなら、限りなく「性的オーガズム状態にある人の表情」で描かれるようになった……とされている。

 これは私がそうだと言っているのではなく、そうした主張の論文が繰り返し出ているし、ジャック・ラカンが「女性の性的絶頂」について、「ローマにあるベルニーニの彫刻を見に行くだけでいい。誰が見てもすぐに彼女(テレジア)がその瞬間を迎えていることが分かる」と述べて以後「通説」となって、美術史の授業でも、必ず紹介される説だ。

 ベルニーニの『聖テレジアの法悦』では、彼女に神秘体験をもたらす媒介者として登場している天使が、フロイト的解釈によれば男性器を暗に象徴する矢を手にして微笑んでいるのも、そうした解釈に拍車をかけることになった。

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2013.07.20(土)