戦中戦後の食料難や物資不足と向き合いながらも、音楽と読書でその苦境を凌ぎ切った体験は、物質に頼らずとも気持ちの持ち様で楽しく生きていけるという自信をリョウコの中に芽生えさせた。そこに『暮しの手帖』というバイブル的読本が現れて、リョウコは消費欲を煽り立てるようなコマーシャルや口コミを、一切合切信じない人になった。

 したがって私達子どもも、テレビで見るような素敵なお菓子や飲み物を買ってもらうことは叶わなかった。「そんなものより、おいしいものを作るから」と忙しい合間を縫ってパンやお菓子を作ってくれたのだが、リョウコが特に気に入っていたのが暮しの手帖レシピのアップルパイだ。週に何度もパイを焼き、できたてのアツアツを頰張っては「こりゃおいしいよ!」と嬉しそうだった。

 リョウコは取り憑かれたようにこのパイを焼いた。近所中に配り、オーケストラに持って行き、学校から帰ってきた私達の為に「世界一おいしいアップルパイです」という添え書きと共にテーブルに置いた。が、程なく娘達にアップルパイを拒絶する兆候が表れた。せっかく拵えてくれたのだから食べなければ、というアップルパイ・ストレスだ。私と妹はリョウコに託されるわずかな夕飯代で、オマケ付きキャラメルやペロペロ舐めるチョコレートみたいなお菓子を買うようになった。

 それを知ったリョウコは別に怒りも落胆もしなかったが、アップルパイ作りもぱたりと止めてしまった。「もう作るの止めたの?」とリョウコに問い質すと「作るの面倒くさいし、もう飽きた」と潔く言い切った。アップルパイから解放されて清々した、とでも言いたげなその態度を見た途端、私達はリョウコのアップルパイが食べたくていても立ってもいられなくなった。今思うと絶妙な戦略である。

 ちなみにアップルパイの後にはホットケーキブームが訪れ、今でも私や息子が彼女の家に行くとフライパンの商品テストのように大量のホットケーキを焼いてくれるのであった。


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