過酷な戦争体験を詠った作品も

 一字書の次は、日記のような内容が書かれた作品エリア。

 日常のちょっとした出来事や、そこで有一が感じたことなどが絵とともに綴られている。ゆったりとした気分で描いた作品群が揃っており、有一の日常の視点を感じることができる。

 文字が書き連ねられている「多文字書」も、有一作品の特徴の一つ。ひとかたまりの文章が、大きな紙に書かれる。

 一見、攻撃的なトゲトゲした感じに見える文字は、日常を語る先ののんびりとした作品とは大きく違う印象だ。

 60年代~70年代初めの高度成長期、経済の発展のみを追求し、失われる自然環境や疎かにされる人の尊厳。1978年に書かれた《利潤拡大》は、「利潤拡大 狂気暴走 経済成長 全土開発 自然破壊 生態混乱 大気汚染 海土汚染 牛豚薬漬 魚類亦跡 野菜無季 農薬化肥……」と漢字四文字続き、まるで路上でアジテーションするような、リズミカルな口調で、経済一辺倒で他を顧みない社会を嘆く。

 有一作品の中でも、最も重要で、代表的とされる作品がある。過酷な戦争体験を一遍の詩にした《噫(ああ)横川國民學校》だ。

 日本の終戦間際の1945年3月10日に起きた東京大空襲。東京下町地域で10万人近くが亡くなり、当時、小学校教員だった有一も学校で被爆する。そしてこの時、体験した阿鼻叫喚の地獄絵図を書き綴る。

 「最初は漢文調で冷静に書き始めていますが、途中からいろいろな情景が浮かんだのでしょう。ほとんど絶叫に近いかたちで文字がつながっていきます。だんだんと内容に引きずられるようにして、有一自身の感情を吐露していくような、激情的な表現の言葉が表れていきます」と秋元氏。

 何度も詩にすることを試みたが、形にならなかったものが、有一の支援者の勧めもあり、戦後数十年経ち初めて形になったのだという。

 78年にがんの宣告を受けた有一は、以降、死を覚悟しながら一日一日を大切に、制作に励んでいく。

 この頃から、名僧や名筆家の残した書と向かい、それらを臨書するようになる。そして、僧侶が末期に残す漢文詩である遺偈(ゆいげ)からの影響もあり、自身の遺偈も書き残している。

 遺偈は、死ぬ間際に門弟や後世のために自らの人生を振り返り、心に抱く思いや、その境地を残したものだが、有一の「遺偈」には、このように書かれている。

「守貧揮毫 六十七霜 欲知端的 本来無法」
(貧を守り筆を揮う 六十七霜 端的を知らんと欲す 本来、無法)

文・撮影=景山由美子